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2002年10月13日(日) 阿波藩にいたペテン師



 展覧会を終えて、来ていただいた方々に記帳してもらった芳名録をぱらぱらと見ていて、ふと蜂須賀という苗字が目にとまった。蜂須賀といえば阿波徳島の殿様である。展覧会を見に来られた方がその子孫であるかどうかはわからない。その名前の連想から、しばらく忘れていた人物の名前を思いだした。ほとんどの中学歴史教科書にも名が出ている。

 残念ながら今年初めて愛媛の公立中学に採用された新しい歴史教科書をつくる会の、扶桑社の教科書にも載っている。

佐藤信淵(さとう・のぶひろ1769−1850・明和6年−嘉永3年 )という人物がいた。

 出羽国雄勝郡馬音内に生まれ、家は代々鉱山農業の学問を研究。一六歳のとき父に死別して江戸に出、蘭学、儒学、天文地理暦算測量を学ぶ。諸方を遍歴して見聞を広め、諸藩に出入りして説を講じる。上総大豆谷に閑居して著述をしていたが、再び江戸に出て幕府の神道方吉川源十郎に入門し、さらに平田篤胤に就いて学ぶ。国学の古道説に西洋天文学を交えた宇宙論を哲学的基礎として、農政経済論を説き、空想的な社会改革論を展開した。
                  『日本政治思想史講義録』

 その佐藤信淵、十三歳で蝦夷地探検!?、十八歳で津山藩に招かれ財政改革!!を成功させ、後に阿波藩蜂須賀家に赴き、徳島滞在の一年とちょっ との間に、火術(砲術)を研究し、数十の大砲を作り、自走火船(エンジン付きの船)を発明し、異様船(一種の潜水艦)も 発明したという。その他実行不可能、夢物語が履歴に五万と書かれているのだ。
 さらに、「三銃用法論(さんじゅうようほうろん)」や「西洋列国史略」を著述し、当時阿波藩の家老、集堂氏に請われて 淡路の産業視察までしたのだという。
まるで日本のレオナルド・ダヴィンチだ。だが、ダヴィンチと佐藤信淵とは、天才と詐欺師ほどの違いがあった。ダヴィンチは総じて天才と言われているが、中途半端にやり残した仕事も多い。が、紛れもなく実績が後世に伝えられ残されている。
 ところが佐藤信淵は、その全てがペテンで、大嘘であった。本人は、先祖の学問の集大成をし、著したとしているが、すべて自作自演であった。
 
 この人物を、進歩的文化人の羽仁五郎が「佐藤信淵に関する基礎的研究」で、かつぎあげて、これがきっかけで ペテン師が大思想家になってしまったのだ。
とにかく自称天才といってはばからない のに、当時の蜂須賀家の公文書など、あらゆる記録にこの人 物が載っていない事を証明したのが、「森銑三(せんぞう)」 だった。

ここまで明確に分かっているにも関わらず、教科書に載ってしまうのである。貝原益軒(は、まちがい。安藤昌益に訂正10/14)なども、その名とは裏腹に空虚な存在である。

  羽仁五郎 明治34年生まれ 東大法学部中退
  日本におけるマルクス主義歴史学の確立(講座派)
  近代革命における百姓一揆、農民戦争、農奴解放の意義の発見(人民史観)昭和58年没

  森銑三  明治28年生れ。
大正15年、文部省圖書館講習所卒業。
東京大學史料編纂所、尾張徳川家蓬左文庫、反町弘文莊に勤務。昭和60年沒。



参考文献:「こんな「歴史」に誰がした」谷沢永一・渡部昇一
      森銑三著作集










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