オクラホマ・スティルウォーターから

2002年02月13日(水) 英語の先生

 先月、大学時代の英語のT先生にお誕生日のEカードをお送りしたところ、お礼のお返事を戴いた。私がアメリカに来るか来ないかのうちに他の短大に移られたが、去年はまた別の大学に移られたそうだった。お元気にしていらっしゃる様子が何よりだった。

 UCLAで言語の音声学を専攻されていた先生は、1ドル360円の時代、大阪万博で通訳の仕事をしたり、航空会社のポスターで乗務員の制服を着てモデルになったり、他にもアルバイトをしたり自分でお金をためて留学された。6年間のアメリカ滞在の後日本に戻られ、長らく私の学部で教鞭を取っておられた。2年間の必修のクラスでは殊のほか私たちのクラスを気にいられ、飲み会があればお呼びして、先生も「こんなに仲がいいクラスは初めてだ」と喜んでおられた。

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 英語の先生といえば、だいぶ前にも話したが、高校の英語のS先生を思い出す。イギリスの大学院で英文学を専攻されて、日本に戻って教鞭をとられたのだが、3年間私の学年の担任をされて、またイギリスへ戻られた。今は実家の仕事をついでおられるそうだ。

 一風変わった先生で、イギリスの紳士のようにイギリス英語を話す先生はひょうひょうとしていて、物事に動じない。また、英語の先生なのに、冬は暖かいからとなぜか実験の白衣を着ていた。関西でも田舎の方の出身だが、ある日先生が「小さい時に死にかけたことがあるんです」と言う。お母さんが自殺を図ろうと幼い先生を電車の線路に連れていって電車を待っていたが、その辺は電車が1日に1本か2本しかないところで、待っても電車が来ず、結局諦めた、と、本当は笑えない話をみんなで思わず笑ってしまったことがある。

 T先生やS先生がどんな思いをして留学生活で英語力をつけたということは学生は知る由もない。想像ではあるが、本当は大変な思いをしたんだろうなあと思う。


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