☆今夜は……って、前の夜の月曜日二十三日なんですが、長崎市で開催された、さだまさしコンサートにいってきたのです。
千秋楽だったこともあって、夕方六時〜夜の九時二十分まで、とても華やかで面白くて、笑えて泣ける豪華な夜だったのです。 生と死を見据えるような目で語るそのひとの歌声は、疲れていたのかかれていたのですが、神々しいくらいの響きがあって、鳥肌たちそうでした。 市長さん追悼の意味合いも濃い、一夜でした。
☆いのちがテーマのコンサートだったので、故市長の逸話の他にも、さださんのお友だちの、亡くなった方々の逸話がいくつも語られたのですが、どんなに悲惨な哀しい話でも、語っていくうちに、どこかで、上手に観客を笑わせ、ほろりとさせ、また泣かせる(でも絶望的な涙ではなく)語りの絶妙さは、ほんと凄かった…。 技術的に巧みだというのもあるんでしょうが、何より、このひとは人間をすきなんだなあ、いのちをいとおしむひとなんだなあ、と、その心が強く熱く伝わってきて、心揺さぶられました。 死を語ることで、いのちの輝きを語る人なんだな、と思いました。
あとやはり、励まされましたね。 ずばり、「我々は死んだ人の分までがんばらなきゃいけない」みたいなまっすぐな語りもあったんですが… ああいう魅力的なひとがこの地球に生きている、表現し続けているというだけで、人間という種全体を肯定したくなります。私も人間で良かった、みたいな。うまく説明できないですが。
「ありがとう」と、何回も、客席に向かってお礼をいってくださってたのが、印象的でした。「きてくれてありがとう」「長い時間つきあってくれて、ありがとう」と。 こちらこそ、「ありがとうございました」といいたかったです。 ほんとに素敵な夜でした。 大好きな「道化師のソネット」もきけてよかった^^
同じ時代に、さださんという、とにかく凄い方がいて、今年の今月の今夜、生で歌とお話が聞けたことは、とても幸運なことだったと思いました。
☆ところで、話変わって、アメリカの銃撃事件の犯人ですが。 昔いじめられていたことや、大学で友達がいなかったこととかが、事件の遠因(原因?)ということで落ち着いていきそうですが。
死者をむち打つようですが(いやどうせ相手は外国の人だし、幽霊になっても、日本語読めないだろうから書いちゃうけどさ)、そういう暗くて根に持つ性格のために、友だちができなかったんだな、とか、自分をふりかえることはなかったのかな、と。 (注…「いじめはいじめられる側に責任がある」という話ではないです。いじめはいけないことです。友だち関係の話のことです。他者に好かれるか嫌われるかの違いの話をしています)。
友だちができないのは自分がどこかしらいけないんだ、という「気づき」があって、そこから、「友だちができるような魅力的な人間になろう」とか、「人に優しくできる人間になろう」「もっと心を開いてみよう」
あるいは逆に、「よし、俺さまの価値がわからない友だちなんて、こちらからもうお断りだ。俺は研究に生きる」「ひとりでかっこよく生きてやるぜ」 でもなんでもいい、考え方を変えられたらよかったのになあ、と思います。
「この俺さまを愛さない奴らは死ね」「奴らはまちがっている、粛正だ」なんて考え方で、実は他者への屈折した甘え(依存)から、大量殺人して、自分も死ぬよりも、自分ひとりが生き方を変える方が、よほど楽で、幸せになれる道だったでしょうに…。
まだ二十歳でしたっけ。生きてさえいたら、少なくとも、不幸で孤独だったろう過去よりは、幸福な未来が来た日もあったろうに、と思います。
☆銃撃事件の彼への目線が、心なしか優しくなってるのは、さださんの歌とこないだのカウンセリングと、友人知人とかわしたやりとりの影響かもしれないなあ。でもやはり、許せない事件だということ、自分が犯人の立場なら絶対にこんなことはしない、という思いはかわりないですが。 傷ついた人々、殺された人々のいのちをおしむ気持ちも。 怖かったでしょうね…。
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