今回の上京で、羽田空港から、新宿のホテルまで向かうリムジンバスの中で起きた出来事です。
それは昼下がりの、短くゆったりしたバスの旅になるはずでした。 私は首尾よく最前列右側の、一番景色がきれいに見えるところに腰掛け、でも当時、寝不足の日々が続いていたので、寝ようと決めていました。 が。すいていて、空いている席がたくさんあるバスだったのに、私の左側の席に、わざわざ座りに来る、酒に酔ったオヤジが一人。 奥さんとおぼしき連れの女性がいたのに、その人には素っ気なく、ひとりで後の方の席へいくようにいって、自分はいすに座るなり目をつぶり、眠ってしまいました。 足下には結婚式の引き出物とおぼしき、巨大な紙の袋。 半開きにした口からは、熟した柿のような匂いが立ち上り、たまにこちらによりかかってくるので、私はもう眠るどころではなく、ため息混じりに窓から外を見ていたのでした。
そのうち、オヤジの携帯が、なにやら鳴りました。 どうもオヤジの近所の友人からの電話のようで、起きたオヤジはばりばりの九州弁(長崎在住だけど関東育ちの私には、長崎弁と佐賀弁と熊本弁と福岡弁の区別が付かないので、悔しいけど何弁か不明。いやさすがに、鹿児島弁だったらね、他の四県の九州弁との違いはわかりますが)での楽しげな会話が続きます。 その日の私は、かなり疲れていたので、オヤジがあとわずか九州のお友だちと長電話していたら、ぶちきれていたと思いますが、微妙なタイミングで、オヤジは「じゃあ、帰ったらまた遊ぼうね」(という意味の九州弁)で、電話を切りました。 私は、「マナーが守れない奴は、携帯なんかもつんじゃねえ」と、心の中でつぶやきつつ、ほっとしたのですが、また口を半開きにして寝始めるオヤジには閉口しました。 私は自分ではお酒は飲みませんが、お酒を飲む人を嫌いじゃありません。 でも、かっこよく酔えない人は、あんまりすきじゃなくて。 「あー、私も寝たいなあ」と思いつつ、晴れた東京の空をながめておりました。
そのうち、高速道路で事故があったとかで、バスは本来走るべきではなかった道を走り始めました。ところが、どの道を走っても、道路は渋滞しています。勢い、あちこちのバス停への到着時間は遅れます。 あれは渋谷に近づいたころのことだったでしょうか。 ひとりの三十代くらいのお兄さんが、後の方の席をつと立ち上がり、運転席に近づくと、運転手さんにいいました。 「ねえ、どこでもいいから、バスを止めて、ぼくをおろしてくれないかなあ?」 「えっ、お客さん、それはできませんよ」 実直そうな運転手さんの言葉は、切れのいい江戸っ子風なアクセントでした。 「でも、仕事の約束があって、遅れそうなんだよ。このへんでおろしてもらえれば、走っていって、何とかなりそうだから」 こじゃれた茶色いジャケットを着たお兄さんは、何の仕事をしているのか、神経質そうに運転手さんに詰め寄ります。それを運転手さんは、「規則でおろせないことになってるんです」「もうじきにつきますから」といなしながら、運転し続けます。
微妙に緊迫したやりとりだったんですが、見ていると、なんだか妙におかしくて、私はつい笑ってしまいました。隣で寝ていたオヤジが起きるくらいだったから、けっこう声を出して笑ってしまったのです。 と。 なにかの演出効果のように、運転手さんとお兄さんの表情が和みました。 あれはなんだったのかなあ。ちょっと魔法のようでした。
お兄さんは、ゆったりと運転手さんの方に身をかがめ、笑いながら、 「ねえ、お客さんに脅されちゃったから、しょうがなくバスを止めました、ってのはなしなの?」 運転手さんも、笑いながら、 「ばかいっちゃいけませんよ。私が叱られちゃいます」 「そう? じゃあ、しょうがないかなあ」 お兄さんは肩をすくめながら席に戻ると、携帯電話で、どこかに連絡を取り始めました。「あ、すみません。……ええ、そういう事情で、どうしても時間通りにそちらに伺えなくなりまして」 それっきり、お兄さんはゆっくりと席に座って、運転席の方にはいかなくなりました。
さて一方、今のやりとりで目がさめた隣の席のオヤジです。 彼は、お兄さんが緊急連絡のために携帯電話を使ったのに、「あ、自分も」と思ったのか、どこかにぽつぽつと人差し指でメールを打ち始めました。 まもなく鳴る携帯電話。…おや? さっきとは鳴る曲が違います。 マナーには精通していない方ですが、着信鳴りわけは設定しているようです。
お相手は……話の内容で、誰がきいてもわかる、「愛人」さんとおぼしき方でした。 電話を取ったオヤジの、その、甘ったるい声が、ううう、熟した柿の匂いの口臭といっしょに押し寄せてきたあの時の気持ちったらなかったなあ。 以下、関東方言に翻訳して書きます。九州弁に翻訳できる人は、脳内で翻訳していただけますと、素敵にファニーな雰囲気が味わえるかと思います。 「そう、いま、ホテルに向かうところだよーん。遅れちゃって、ごめんね。家内? ああ、九州に帰ったよ(嘘つけ。同じバスの後の方の席にのってるのは誰だ?<村山注)。ぼくだけが、ホテルに泊まるからさあ。今夜はずっといっしょだよ。愛してる〜。ほんと、愛してるよ〜」 オヤジは、電話を切るまで、数え切れないほどの「愛してる」をくりかえし、あげく、携帯電話にキスするという最高なアクションを見せてくれました。
息絶えそうな私に、オヤジは、上機嫌なおももちでききました。 「あとどれくらいで新宿に着くかな?」という意味の、なれなれしい九州弁のため口でした。 正直いうと、さっきの若いお兄さんの運転手さんに対するため口すら、若干気に入らなかった私なので、オヤジのため口はむっとしました。笑顔で冷たく、 「さあ、遅れちゃってますからね。さっぱりわかりませんね」 オヤジは、携帯電話を握りしめ、また寝てしまいました。口半開きにして。 そのようすは、ちょっとアンコウに似て、哀愁と諧謔味がありました。
若いお兄さんは、いつの間にか、バスを降りていました。 オヤジは、そのうち、目を覚まして、どこかで降りてゆきました。 バスの運転手さんは、私がバスを降りる時、とても親切に荷物を下ろしてくれました。明るい東京弁が、素敵でした。
この話を、夏さんに携帯でメールしたら、「かわいそうに、柿オヤジと箱詰めだったのね」という返事が返ってきました。 それ以来、あのオヤジは、私の脳内で、あたかも子泣きじじいの亜種のような、柿オヤジという名の妖怪変化として、カテゴリーわけされているのでした。 寝不足の日には、あまり遭遇したくない部類の怪異として。
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