日々の泡・あるいは魚の寝言

2001年02月22日(木) 書くということ

私にとって、創作とは、無意識のうちに自分の傷をなぞる行為なので、それはとても億劫であり、腰が引けてしまう仕事でもあるのです。
同時に、「このために私は生きているんだ」と、毎回再確認できる、魂が浮揚するような感覚を伴う、神聖な作業でもあるわけです。

今、シェーラ9の構成を作りながら、これはどうしたって、人や生き物の生き死ににふれずにはいられない物語になりそうなので、気が滅入ってきています。
つい最近、猫が死んだことを思い出さなきゃならないし、ちょっと心の皮をめくれば、父親が死んだときの記憶だって、よみがえってくるのがわかってる。
いやな作業です。
でも、書かないわけにはいかない。
それが私の仕事だし、書くことによって、自分なりの「疑問」への結論が、とりあえずはできてくるのがわかっているからです。

人間はどうして、いつかは死ぬとわかっているのに、この地上に生まれてくるのだろう? そんなことを考える余地もなく、ただ水が高いところからこぼれてくるように、この地上へと魂は下ってくるのだろうか?
人の死後も、意識は存続するのだろうか?
存続するとしたら、それはどこへいくのだろうか?
なんてことを、物語を構成しながら考えています。
いつも考えていることではあるんですが、照準を合わせて考えています。

もっとも、シェーラの世界は、「神様」のいる世界なので、そういう前提でしか(魂は存在するし、死後も人の意識は残る)生き死にについて書けないんですが、でも、それでも、そういう世界なりに、シェーラに、「人がいきるということの意味について」考えさせなきゃならない。
うーん。
今回はハードな仕事だ。


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