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指輪物語関連ファイル

YUKI


2004年02月09日(月)
 昨日から考えていること


映画を見てからずっと考えています。
指輪物語の結末をどう受け止めたらいいのか。
ちょっとまとまらないですが、思ったことを以下書いてみます。

<映画を見てから考えていること>
『王の帰還』を見てからずっと考えている。
どうしてフロドはホビット庄に住み続けることができないのか?
何故かれは癒えることのない傷に苦しみ続けなければいけないのか?
ずっと考えて、今日ある程度考えがまとまったので書いてみようと思う。
きちんと推敲していないので、まとまりには欠けるけれど
思ったとおり書くことにする。
まず、昨日書いた文章。これはまだ途中の考えなので、
今思っていることの前段階のようなものだ。

2月8日に考えたこと
『サクリファイス』というのはタルコフスキーの映画のタイトルだ。
私はまだ見ていない。ネットでみたあらすじによると
核戦争をとめるために自らを犠牲に捧げて、というような話らしい。
『犠牲』というのは柳田邦男さんの本のタイトル。
これは若くして自殺した柳田さんの息子さんの話。
読んだのがかなり以前なので、内容の細かいところは覚えていない。
どちらも「マタイ受難曲」が作品中に流れている。
犠牲サクリファイスというのは、キリスト教圏ではキリストのことをさすんだろうか。
私は宗教的な知識がないので詳しいことを知らない。
『指輪物語』で、フロドが全ての災いの大元である指輪を
捨てる旅で深い傷を負い、ついに故郷を去ってしまうことに
いつも「何故?」と思ってしまう。
私の心の中では、その結末にどうしても納得ができない。
きっとどこかに、キリスト教的な教義との関連を述べた文章もあると思うのだけれど
私はまだ読んだことがない。
そもそも、イエス・キリストが罪を背負ったことで
他の人々が許されるという、その話も実はよくわからないのだ。

でも、時々ものすごく行き場の無い思いに捕らわれることがある。
それは、たとえば一昨年発覚した北九州市の監禁殺人事件。
不思議なくらいテレビや新聞では報道されない事件なのだが、
ネットで検索すると詳細な事件経過を読むことができる。
自分の欲望のために他人からお金を搾り取り、自由を奪い、生命も奪う。
親も兄弟も関係ない。自分の手を汚さずに、被害者に被害者を傷つけさせる。
それはさながらこの世の地獄のようだ。
そこで殺されていった父親、母親、子供達のことを思うと
胸がつぶれるような思いがする。
殺されてしまった彼らに救いはやってくるんだろうか。
そしてまたそういう犯罪を犯した人間が
そのことを心から反省することはあるんだろうか。
この場合、個人的な犯罪だが、そういう犯罪を
犯人ひとりの責任と考えていいものか。
そういう犯罪者を生み出した社会にも責任があるとしたら
その罪を償う(贖う)のは誰か?
同じように、自分の欲望を肥大化させいって規模が大きくなったのが戦争だとしたら
その責任はどこにあるのか。前線で戦う兵士にあるのか。
手を汚さずに命令を与えている政治家にあるのか。
利益を享受する者に等しく責任があるのか。
頭の中で考えていると、話はどんどん拡散していってしまう。
それは流された血や痛みや涙への答えにはならない。

そういう行き場のない思いの受け皿が宗教だろうかと思ったりする。
ひとつひとつの重さをしょって生きていくことは難しいから、
ある程度肩代わりしてくれるシステムじゃないかと。
私はそのような信仰を持っていないので、いつまでもうだうだと
殺された子供の悲鳴や、ジェルミの悪夢や、フロドの痛みを考え続ける。

私は原作のマニアではないので、『指輪物語』についてそんなに深くは知らない。
上に書いたことについて納得のいく答えを見つけるために調べることもたぶんしない。
なぜフロドは故郷で暮らすことができないのか。
どうして彼が傷を負わなくてはいけないのか。
もうすでにそういうことは語りつくされているかもしれないけれど。

2月9日に考えたこと
フロドが指輪を捨てて、そのかわりにもう故郷には住めなくなったことを
現実に起こったことのように、不幸と考えるのが間違っているのだろうか。
それは物語の中の象徴的な出来事として受け止めるべきなのか?
自分は、自分の気持ちが収まるような「そしてみんな幸せに暮らしました」という結末を
求めているだけなんだろうか?
フロドが西の国に行ってしまったことを、たとえば天国へ行って安らぎを得たと
考えればいいんだろうか?
故郷に残って幸せに暮らす人と、もう故郷に住めない人を分けたのは何だろうか?
そんなことを朝から考えていた。そうしたらすとんと考えがまとまった。(ような気がした。)

痛みは消えないし、傷は無くならないこともあるんだ。
自分に原因が無くても、傷つけられることが世の中にはあるんだ。
自分が安心するために、大丈夫と言ってもらうことを期待してはいけないんだ。

指輪物語はファンタジーだけれど、そういう意味ではとてもリアルな世界なのかもしれない。
そして、フロド以外の旅の仲間達もフロドと同じように戦い傷ついている。
彼らの物語が心をうつのは、彼らが自分の欲から離れて、
他のもののために身を捧げることができるからだ。
これを「自己犠牲」と言ってしまうと、また別のニュアンスが加わってしまうが、
彼らは自分自身をないがしろにしているわけではなく、
もう一段上の段階から行動することができる。
それが、メリーとピピンが話している、「世の中には素晴らしいことがあるということがわかった」
ということじゃないかしら。(正確に引用すると「もっと深くもっと高尚なものが存在している。」)
だけど高尚なものだけでは暮らせない・・・・と続くところに
作者のバランス感覚やユーモアを感じるような気がする。

フロドが美しいホビット庄で笑って暮らす結末を私は期待してしまう。
しかし、そう思うこと自体が、自分の欲かもしれない、と思う。
気持ちの良い、暖かい、ハッピーエンド。
そうやって自分自分の気持ちにこだわること、こうあるべきだと考えること、
そのことこそが、指輪を求める気持ちへの第一歩かもしれない。

今日、友達と食事をしながら映画の話をした。
彼女はまだ『王の帰還』を見ていないけれど、原作は大学生の頃から読んでいる。
映画がすごくよかったよ、でもずっといろんなことを考えている、と私が言うと、
「あの本を読んだ後は、なんだかとても悲しいのよね。終わったあとが悲しいの。」
と言った。そうなのよ。映画もそうなのよ。だから映画は原作の大事なところを
伝えていると思う、と私が言った。

全然、状況は違うので、こんなところに書名を出すと、また別のニュアンスが
加わってしまうかもしれないが、『聞け、わだつみの声』という本がある。
戦没学生の手記を集めた本。
彼らは日本が負けることを知っていた。勝つ可能性がないことを知っていた。
それでも逃げることなく自分の命をかけて戦った。
彼らの手記は静かで、残される家族への愛情にあふれている。
それを読むと悲しくなる。それはフロドのことを思う気持ちと似ている。

彼らのために何ができるだろう。
彼らが望んだことは、自分の故郷がいつまでも平和で
残された家族や仲間が仲良く暮らすことではないかしら。
私たちは、ちゃんとそうしているだろうか?

歴史を見ても明らかなように、昨今の状況を見ても明らかなように
争いや暴力や様々な問題はなくならない。
人間が天使のように清らかな存在になることなんてありえない。
いつの時代にも、理由の無い暴力で傷つく人がいる。
戦いの中で傷つく人がいる。
受けた傷を抱えて生きて行く人もいるだろうし
その傷に耐えることができない人もいるのかもしれない。
自分の力以上に重い荷物を背負った人に何をしてあげられるのか。
人が人を救うことなんてできるんだろうか。
とりあえず私にできることは、
彼らのことを思うこと。彼らのことを思って泣くこと。
そして、自分のいる場所で最善をつくすこと。


昨日から考えているのはそういうことだ。
ここに書いたようなことは、アレンジの仕方によっては
とんでもない方向へ持っていかれるような可能性がたくさんある。
でも、できるだけ自分の頭で判断しながら
いろんなことを考えて行きたいと思う。
PJの映画は、私に原作を読む機会を与えてくれた。
そしていろんなことを考える機会をくれた。
そのことに心から感謝したいと思う。