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 1984年/ジョージ・オーウェル


カバーより
1984年、世界は三つの超大国に分割されていた。その一つ、オセアニア国では<偉大な兄弟>に指導される政府が全体主義体制を確立し、思想や言語からセックスにいたるすべての人間性を完全な管理下に置いていた。この非人間的な体制に反発した真理省のウィンストンは、思想警察の厳重な監視をかいくぐり、禁止されていた日記を密かにつけはじめるが・・・。社会における個人の自由と人間性の尊厳の問題を鋭くえぐる問題作。


ジョージ・オーウェルは大好きな作家なのだが、政治的、思想的なテーマになると、私自身に興味がないせいか、今ひとつ入り込めない。事実、オーウェルからは、思想的なことは何の影響も受けていない。

この小説について、政治的、思想的な面から感想を書くのは、すでに多くの人が述べていることであって、そういったことに無知な私が、そういう面で意見を述べたところで、何の意味もないだろう。

では、文学としてはどうなのか?『ジョージ・オーウェル論』を書いたジョン・ウェイン(映画俳優ではない)によれば、「彼は小説も満足に書けない小説家であり、自分の職能を正しく学び取らない批評家であり、矛盾(ギャップ)だらけの史観を持つ社会学者であった。にもかかわらず、彼は重大なのである」と評されている。つまり、この小説の、文学としての評価はされていないということなのだが、私はこの小説を、政治的、思想的な面からのみ評価するのは、片手落ちだと考えるし、もっと文章やプロットについて語られてもいいのではないかと思う。

かといって、小難しいことは私には書けないので、感じたことをありのままに書くしかない。私が最も注目したのは、主人公のウィンストンが、禁止されている日記を書き始めたこと。それこそ文学的な行為であると思うからだ。しかし、期待していたウィンストンの日記が、全編を通じて出てくるかというと、全くそうではなくて、最初の書き出しのみで、あとはただ単に、そうした禁を犯していたという事実だけなのだ。

ジュリアという恋人の出現も、禁を犯したことのひとつになるが、日記といい、恋愛といい、この小説の中の世界では、今現在、当たり前のように思える行為が全て禁止され、市民の生活は当局によって四六時中監視されている。そういった中で、人間はどんな精神状態になるのか、突き詰めると、人間は自分のことしか考えていないということがあからさまになってくる。

非常に興味深いのは、「言葉の破壊」という概念。社会が改革されるのだから、言語もその思想にあった言葉にするべきだというのは、面白い。

「・・・“good”(良い)みたいな言葉があるなら、“bad”(悪い)みたいな言葉の必要がどこにあろう。“ungood”(良くない)でじゅうぶん間に合う─いや、その方がまだましだ、まさしく正反対の意味を持つわけだからね。(中略)もし“グッド”の強い意味を持った言葉が欲しければ、“excellent”(優秀な)とか、“splendid”(見事な)といったような曖昧で役に立たない一連の単語を持っていても仕方がない。“plusgood”(プラスグッド)という一語で間に合う。もっと強い意味を持たせたければ、“doubleplusgood”(ダブルプラスグッド)といえばよい」

といった具合だ。この語法の説明は、なかなか的確である。「言葉の破壊」とは、現代の若者の言葉遣いのようにも思えるが、それとはまた別で、これにはきちんとした論理性がある。こういう語法にすれば、単語をたくさん覚えなくても済むと思うのは、ぐうたらな私だけか?

最後のパラグラフには、

「彼は巨大な顔をじいっと見上げた。四十年かかって、あの黒い口髭に隠された微笑の意味がやっと分かったのだ。ああ、何というみじめで、不必要な誤解であったことか!(中略)何もかもこれで良かったのだ、苦闘は終わりを告げたのである。彼はやっと自分に対して勝利を納めたのだった。彼は“偉大な兄弟”を愛していた」

とあるのだが、私にはこの意味が、全然理解できていないと思う。これはオーウェル独特の風刺なのだろうと考えるが、人間は個人の思想や精神などを犠牲にして、何か巨大な力に屈してしまうものだという警告だとも思える。

2004年07月23日(金)
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