空色の明日
DiaryINDEXpastwill


2010年06月06日(日) 何もない

手術の前に
「この手術をしたらもう声が出なくなるから
何か言っておきたいことがあったら書いて」と
父に紙とペンを渡しました。

とても「成功率が低いので最後の言葉を」とは
言えなかったのですが
「何もない」と父はしぐさで話しました。

以前に敗血症で生死をさまよい
奇跡的に後遺症もなく退院できた時から
再び生き直せる時間を大切にしようと
旅をしたり好きなことをすることに
専念したこの数年だったので
もうやりたいことはみんなやったのかもしれません。

残された者は亡くなった人が「やりたかったであろうこと」に
出会うたびに心が痛むのですが
「何もない」と言い切ってくれた父に
今の私たちの心が救われている気がします。



手術室に入る時、母、弟、私の3人で見送りました。
「また後でね。がんばってね。」と手術室に入って
ほんの15分ほどしたとき
担当医の先生から呼び出されました。
不安と共に別室へ入ると執刀医の耳鼻咽喉科の先生から
手術をできないということを聞かされました。

現在入っている管を抜いて新しい管をいれるという
手術の予定だったのですが
癌の進行が進みすぎていて
今の管を抜いたら次の管が入らない確率が高すぎるというのです。
その場で窒息につながるため、リスクが高すぎて
手術は中止といわれました。
優れた技術で執刀待ちの患者があふれている
名の知れた先生だそうで
その先生から言われては私たちもそれ以上を
お願いすることはできませんでした。


抜くことも出来ない管が入り
手を施すことはもうなくなってしまいました。
あとは癌で管が押しつぶされ窒息するか
管からの雑菌で肺炎になるか
そのどちらかを待つだけの日々が始まります。


麻酔から目覚めた父に
手術はできないことを告げました。
管を抜いてくれと手で引っ張ろうとする父に
「お願いだから七転八倒しながら窒息する姿を見せないで」
と私が言うとつらそうに眉間にしわを寄せながら
その手の力を止めたのでした。




安藤みかげ