進藤がパチリと石を置いた時、ふと顔を上げてしまった。
もう数えきれない程打っている。
彼の打つ石の音はどんなものでも耳に馴染んで知っている。そう思っていた。
(でも知らない)
今置かれた石の音は今まで一度も耳にしたことが無かったものだとぼんやりと頭の隅で思う。
休日の午後、 彼の家で二人で打っていて中盤戦に入った頃だった。
戦況はぼくの方がやや優勢で、でもまだ終盤にかけて油断出来ない。そんな感じだった。
進藤はしばし考え込んで右上に打った。その音が今までと違っていたのだった。
(なんだろう)
置かれた所は急所というわけでも無く、ごく無難な手だったと思う。
なのに何故響きが違うのかわからない。そのことがぼくを不安にさせた。
「進藤」
声をかけようとして固まる。
ぼくが顔を上げたのと同時に、進藤がぐっとこちらに身を乗り出して来たからだ。
ゆっくりと彼の右手が頬に触れる。
そしてあっと思う間も無く顔が迫り唇が重なった。
真っ白だ。
頭の中も何もかもが真っ白になった。
それは時間が止まったような感覚だった。
「…矢」
「塔矢」
「おいってば」
呼ばれていることに気がついて目の焦点が合った。
「あ…ああ、なんだ?」
「なんだじゃねーよ。おまえの番じゃん、いつまで考え込んでるんだよ」
それはいつもの光景だった。
何十、何百と繰り返された。
(なんだ? 今のは一体なんだったんだ?)
白昼夢を見たのだろうかと思う程、進藤は何も変わっていない。
呆れたようにこちらを見ているその顔は憎たらしいくらいだ。
「目ぇ開けたままで眠るなんて余裕だな。そんなにつまんねー碁になってるか?」
「いや、そんなことは」
慌ててパチリと石を置く。
するとすかさず進藤が石を置いた。
今度はいつもの音だった。
(なんだ?)
(本当に夢でも見ていたのか?)
でも触れた生々しい感触が唇には残っている。
夢か、現実か、それともあれは自分の半ば諦めている願望なのか。 ぼくは静かに考えた。
深く、深く考えて、それからパチリと石を置いた。
特別珍しい一手では無い。
でもはっとしたように進藤が盤から顔を上げるのが見えた。
ぼく達はいつも石で語らう。
きっと彼の耳には、今のぼくの一手が先ほどの彼の石の音と同じようにいつもとは違う響きを耳に与えたことだろう。
彼の目を見つめながら、ゆっくりと彼の方にぼくは身を乗り出した。
負けっぱなしは気にくわない。今度はぼくの番だった。
end
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