ぴんと張った空気が頬に心地良かった。
本来ならエレベーターで降りる所を三階だからと階段で下りて、目的の場所に向かうべく角を曲がったら思いがけず中庭に出くわした。
まだ掃除の途中らしく、古いガラス窓は大きく開け放されていて、だからすぐ目の前にある梅の木をよく見ることが出来た。
「あれぇ、もう花咲いてんのな」
肩越しに暢気な声に言われて、ため息をついて振り返る。
「梅はこのくらいの時期だよ。うちの庭でも咲いていただろう」
「おまえんち、庭が広すぎてどこに何が植わってるのかよく覚えて無いし」
立っていたのは進藤だ。
ぴしりと清潔にスーツを着こなしているけれど、頭のてっぺんに寝癖のついた一団がある。
「キミね、写真も撮られるしネットでも配信されるんだから、もう少し身だしなみをちゃんとして来た方がいいと思うけど」
「いいよどうせ後で頭かきむしるはめになるんだから」
「なるのか」
「なるよ。おまえ相手だもん」
にこっと邪気無く言われて失笑する。
「かきむしるはめになるのはこっちかもしれないだろう」
「おまえそういう格好悪いことはしないじゃないか。ただ鬼みたいに凄い顔になるだけでさ」
悪気0%で言われては怒る気にもなれない。
「それにしてもどうして階段で下りて来たんだ、キミ七階だろう」
「なんとなく。昨日からここに居るから動き足りないっていうか、なんかもぞもぞして」
「動物か! でも少し解る。確かに動きたい気分になるよね」
話しながらまた視線を中庭に戻す。
今日ぼく達はこれからこの宿で棋聖戦の最終局を戦う。
これまでの戦果は三勝三敗で全くの互角。彼が挑戦者でぼくが現棋聖だ。
プライベートでは一緒に暮らしているけれど、集中するために少し前からぼくは実家に戻っていて、彼と顔を合わせるのは久しぶりだった。
「折角キミを憎らしいと思い続けてモチベーションを上げて来たのに台無しだ」
「平気だろ、打ち始めたらすぐにおれのこと憎らしいって思うだろうし、大体それはお互い様だし」
人がサワヤカな気持ちで対局に赴こうとしたら、こんな所で暢気に外を眺めているんだもんなあと言われて軽く睨み返す。
「気持ちがいいなあと思っていたんだ。空気が澄んでいて、冷たくて緊張感があって」
「俺も同じこと思ってた。それに梅も咲いてるし?」
「うん。梅も綺麗に咲いているしね」
朝の空気に混じって香る、その香りは甘くて清々しい。
と、小さな鳥が枝に止まった。
「え? マジ? 梅に鶯ってヤツかよ」
嬉しそうに進藤が言うのに、微笑んで返す。
「残念。あれはメジロ。でもメジロの方がイメージの中の鶯に近いよね」
ちょん、ちょんと枝を渡り、花をつつくメジロの姿は愛らしかった。
「いいもの見たな」
「…うん」
それも進藤と二人で見た。それがとても嬉しかった。
「あ、でもそろそろ行かないとヤバくないか? もう結構時間迫ってるぜ」
「じゃあキミが先に行け、仮にも最終局を争う挑戦者とホルダーが仲良く一緒に入場なんて格好がつかない」
「だったらおまえが先に行けよ、いつもなら15分前には入ってるだろう」
「そうだね、そうさせて貰おうかな。キミはいつもギリギリだしね」
「その方がいいんだよ。緊張感持続したままやれるから」
「寝坊も方便だな」
「違うって!」
笑い合ってそれから、一度だけぎゅっと抱きしめ合った。
「今日はよろしく。手加減はしないよ」
「それはこっちのセリフだっての。首洗って待ってろよ」
「ああ、大丈夫、昨日お風呂で良く洗ったから」
そして離れるとぼくは彼を残して対局場に向かった。
去る前にもう一度見た中庭の梅にはもうメジロの姿はなくて、でも真っ直ぐに花を見詰める進藤の横顔が目に映った。
この世で最も憎らしく、この世で最も愛している相手。
ああぼくの宿敵は本当に男前だと誇らしく思いながら、ぼくは磨き上げられた木の廊下を少し早足に歩いたのだった。
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たぶんきっと一生こんな感じ。
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