SS‐DIARY

2016年11月29日(火) (SS)馬鹿な子



「馬鹿ですねえ」


言いながら、優しい手がゆっくりとヒカルの頭を撫でる。


「やったことは立派ですが、万一ということは考え無かったのですか?」

「そんなの、あんな咄嗟に考えられるかよ」


返すヒカルの声はふて腐れている。


「いきなり目の前でガキが道路に飛び出して、それで車が来てんの見えてんのに、あれこれ考えてなんかいられないだろ」


体が勝手に動いたんだよと言うヒカルの言葉に撫でる手が止まり、大きなため息が起こった。


「それはそうですが、あなた……一歩間違えていたら死ぬ所でしたよ? こんな大切な日にそんなことになったら塔矢がどれだけ悲しむか」

「あ……うん」


寝かされているベッドの脇にヒカルの荷物がひとまとめになっている。

携帯や財布や家の鍵に混ざって、小さな指輪の箱があった。

ヒカルは今日、アキラにプロポーズするつもりだったのだ。


共に暮らすようになって数年が経ち、そのままでも居られたけれど、やはりきちんと法的にも結ばれたい。


「あなた、出がけにわざわざ宣言して行ったじゃないですか、それでこうなったらアキラは間違い無く泣きますよ」


『今日、おれおまえにプロポーズするから』


出掛ける前に言ったのは、自分の背中を押すためだった。

いつも通りの朝のいつも通りの見送りに、キスをしてからそう言ったらアキラは驚いたように目を見開いて、それから可笑しそうに笑ったのだった。


『わかった。じゃあぼくはケーキとワインを買って来ることにする』


ヒカルは心底ほっとして、それから無性に嬉しくなった。

宣言したのは、アキラの反応を見るという意味もあったからだ。


『期待して待ってろよ、指輪と薔薇の花束贈ってやるから』

『三ヶ月分か……タイトル戦の賞金三回分かな。楽しみにしてるよ』

『ばっ…おれ破産するっ!』


それが今朝。


アキラはきっと言葉通り、ケーキとワインを買っただろう。

そして午後の予定は無かったはずなので、早めに帰宅して少し豪華な夕食を作ってヒカルの帰りを待っていたに違い無い。


「そこにこの知らせですよ。どんなにショックを受けたことか」


馬鹿ですねえと、だめ押しのように言う声にヒカルはくるりと背を向けた。


「おや、いじけたんですか?」

「そんだけバカバカ言われたらおれだって傷つくっての! そりゃあ……おれ、バカだけどさぁ」


だからおまえも怒ってんだろとヒカルは言った。

背を向けたまま、ともすれば消え入りそうな小さな声で相手に向かって言ったのだった。


「おれがバカだったから、だから……まだ怒ってんだろ、佐為」


しん、としばし間が空いた。

そうしてから唐突にぺしりとヒカルは叩かれた。


「ほんっっっっとにあなたはバカですね、ヒカル」

「なんだよ、だからバカだって言ってるじゃん!」


思わず振り返ったヒカルの前髪を佐為の指がくしゃりと掴んだ。


「私がいつあなたを責めました? 私がいつあなたを恨んでいると?」

「だって……、でも……」

「だっても、でももありません! まったくもう、これだからあなたは」


呆れたように言うと、佐為はぐりぐりと髪をかき回すようにして撫でた。


「あのね、ヒカル」

「……なんだよ」

「物知らずなあなたに教えてあげます。俗にね。バカな子ほど―」


ゆっくりと語られた声は優しかった。

佐為は、きょとんとした顔になったヒカルにそっと顔を近づけるとこつんと額を押し当てた。


「愛しい子。どうか命を大切に」


いつも必ず助けられるとは限らないんですからねと囁く声が遠ざかり、そしてヒカルは目を覚ました。




ヒカルの目に最初に映ったのは自分の胸元にしがみつくようにして顔を伏せているアキラだった。


「塔…矢?」


呼びかけた声に弾かれたようにアキラが面を上げる。


「進藤、目が覚めたのか? 気分は? どこか痛む所はあるか? あ、いや…その前にぼくが誰か解るか?」


矢継ぎ早の質問にヒカルは薄く微笑む。


「うん。大丈夫。どこも痛く無いし気分も悪くない。そしておまえのこともちゃんと解る。さっき名前呼んだじゃん」


食い入るようにヒカルの顔を見詰め、ひとことひとことを真剣な面持ちで聞いていたアキラは、ほっとしたように息を吐いた。

そして一瞬泣き出しそうな顔になってから、キッとヒカルを睨んで怒鳴る。


「バカっ! キミは一体何をやっているんだっ!」


轟くような大声に病室の空気がビリビリと震えた。


「あんなことを言うからぼくは真に受けてご馳走を作って待っていたんだぞ! なのにいつまで経っても帰って来ないし、挙げ句の果てには警察からの電話で事故に遭ったって……ぼくがどんな気持ちになったか解るか!」


赤く泣きはらした目。憔悴してやつれた顔。

アキラは恐らくヒカルの死を覚悟したに違い無い。

病院に駆けつけてヒカルが目覚めるこの瞬間までに一体どれ程の涙をこぼしたことか。


「ごめん。ごめんな。でもおれだって好きでこんなことになったわけじゃなくてさ」

「当たり前だ!」


アキラの声は容赦無い。


「飛び出した子どもを助けたって、確かにキミならそうするだろうと思うよ。でもそれでキミが死んでしまっていたらぼくは絶対にその子のことを許せなかった」


それが間違った感情だと解りきっていても、その子を助けないでくれれば良かったと、きっと願わずにはいられなかったと言うアキラの声は苦渋に満ちている。


「大体その瞬間、少しはぼくのことを考え無かったのか? キミに何かあった時残されるぼくのことは」

「あー…」


問い詰められてヒカルは思わず素でぽろりと言ってしまった。


「…なんも考えるヒマなんか無かったなあ」

「バカっ!」


これまでで最大級の怒声が降った。


「バカっ、キミはどれ程バカなんだ! キミが死んだらぼくも死ぬ。そのくらいのことが解らないのか、バカっ!」


アキラは普段決して「バカ」という言葉を使わない。

人に使ってはいけない言葉だからと、どんなに非道い喧嘩をしても今までそれをヒカルに投げつけることは絶対に無かった。

それが今や大安売り状態で連呼している。

それ程今回のことはアキラにとってショックだったのだ。



「バカ、キミは本当にバカだ」


ぼろぼろと大粒の涙をこぼすアキラに、ヒカルはすっかり狼狽えてしまった。


「えーと、ごめん。ごめん、な? とにかく生きてるんだし」

「知るか、バカ」

「頼むから泣き止めよ。あ、そうだ、なんだっけ、あれ」


ふっとヒカルの脳裏にある言葉が浮かんだ。

どうしてそれが浮かんだのかは解らなかったが、躊躇すること無くヒカルは宥めるようにその言葉を口に出した。


「おれ確かにバカだけどさ、ほらよく言うじゃん? バカな子程可愛いって」


だから勘弁してくれよと言うヒカルをアキラは一瞬怪訝そうに見詰めた後、顔を更に怒りで染めてビンタ一発と共に吐き出した。


「この……大バカ者っ!」



その後騒ぎに気がついて看護師が駆けつけて来るまでにヒカルはアキラから一生分以上の「バカ」を言われるはめになったのだった。


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ヒカルは見た夢の内容を覚えていません。


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