「アキラくんは紅茶、進藤くんはコーヒーで良かったわよね?」
碁盤の横に置かれたカップに、アキラは躊躇った後、非道く申し訳無さそうな顔で言った。
「ごめんなさい、市河さん。今日は紅茶じゃなくてホットミルクにして貰えますか」
あらと、市河が驚いた顔をするのに更に言葉を重ねる。
「実は最近カフェインを摂りすぎているみたいで、お茶の類を控えているんです」
「どうしたの? 眠れなくなっちゃった?」
「そういうわけでは無いんですが、いや……そうとも言えるのかな。少し動悸がする時があって」
それで寝付きが悪い時もあるのだと言うアキラの言葉に市河が眉を寄せる。
「どこか体調が悪いんじゃない? ちゃんとお医者様に看て貰った方がいいんじゃないかしら」
「あ…それは」
たまたまではあるが先日棋院で健康診断があり、そこでの結果は健康そのものだったのだ。
「だからたぶんお茶や紅茶の飲み過ぎなんじゃないかって。確かに最近喉が渇いて飲む機会が増えていたから」
「まあ、大昔の人はお茶で酔ったって言うくらいだものね。解ったわ、しばらくはアキラくんにはミルクかジュースを出すことにします」
「すみません、我が儘を言って」
「何言ってるの、アキラくんに何かあったら大変でしょう?」
優しい姉のような微笑みを残して市河は去り、しばしの後にホットミルクを持って戻って来た。
「それじゃごゆっくり」
「はい、ありがとうございます」
ぺこりと頭を下げたアキラは、そこで初めて違和感を覚えた。
「キミ、どうしてずっと黙っているんだ?」
普段は五月蠅いと北島に窘められるのが常で、市河にも機関銃のように喋りまくることの多いヒカルがさっきからひとことも喋らない。
「いや別にどうしてってことも無いんだけどさ」
ヒカルは自分に出されたコーヒーを一口飲んでカップを置く。
「その動悸っていつ頃からしてんのかなって」
思いがけず真面目な面持ちのヒカルにアキラは面食らった。
「いつって……そうだな、気がついたのは最近だけど、実際はもう少し前からしていたような気がする。眠れなくて夜中に起き出して水を飲みに行った覚えがあるし」
「うん、だからそれって例えばおれとこうして会うようになる前から、それとも後?」
ヒカルの問いにアキラは黙り、しばし真剣に考え込んだ。
「後……かな。先週もキミと会っただろう? その晩も動悸が非道くて眠れなくて、それで気にしだしたんだから」
「それで、今は?」
「え?」
「今はどーなん?」
「今って……うん。言われてみれば少ししてるような気が」
途端にヒカルの表情から緊張が解けた。
「なーんだ、マジ心配しちゃったじゃねえか。大丈夫、それ病気でもなんでも無いから」
「な、どうしてキミにそんなことがわかるんだ!」
「どうしてだって、わかるもんはわかるんだよ。とにかくそれは病院に行っても治らないし、治療法なんか無いから気にしたって無駄無駄」
そして更に追い打ちをかけるように言う。
「たぶん一生治らねーんじゃないかなあ」
ヒカルの言葉にアキラの表情が露骨に曇った。
「それは……困る。こんな、いつも動悸がしては落ち着かなくて」
「いいんだよ。ってか、おれとしてはずっとそのままで居て欲しいんだけど」
「キミ、本当に非道いな! 少しはぼくの身にもなれ! ぼくは本気で困っているんだぞ!」
不愉快を隠しもせずに怒鳴りつけるアキラをヒカルは涼しい顔で見つめている。
「だったらおまえもちょっとはおれの身にもなれよな」
「それはどういう……」
「教えてやんない」
でもいつかたぶん解る時が来るよと、したり顔で言うとヒカルは再びコーヒーのカップに手を伸ばした。
背伸びして、子どもっぽく見られたく無くて碁会所ではいつもリクエストしているコーヒー。
苦くて正直ヒカルは好きでは無かったが、少なくとも二杯はここで飲む。
けれど不思議と幾ら飲んでも眠れなくなることは無いし、動悸が速くなることは皆無だった。
(だってそんなの)
思いながら密かに苦笑する。
ちらりと目を上げた先に見えるふくれっ面の美人の碁の鬼。
この鬼を思うたびにヒカルはいつだってずっと、もっと強くもっと非道く胸の辛さを感じさせられて来たのだから。
(今更カフェイン如きでびくともしねーっての)
でも、アキラには教えない。
アキラ自身でそれに気がついて欲しいと思うし、何よりも自分が苦しんだのと同じだけはアキラにも苦しんで欲しいと思うからだ。
「ま、いつかな、いつか」
「キミはそればっかりじゃないか!」
医者でも薬でも温泉でも治せない。そんな不治の病に二人して罹った。
それはヒカルにとっては有り得ない奇跡で、同時に信じられない位幸運なことでもあった。
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前にも同じタイトルを使ったことがあるかもです。もしそうだったらご容赦を!
そして、要は毎日ドキドキしちゃうアキラの話なのでした。たぶん本当に自分は何か病気では無いのかと真剣に心配していることと思います。
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