空気はピンと張り詰めていた。
十畳ある和室の南と東の窓は開けられ、緑濃い庭園から涼しい風が吹いて来る。
にも関わらずじりじり暑いと感じさせられるのは、向かい合って座るヒカルとアキラの表情の険しさからだったかもしれない。
両者とも、もうかれこれ三十分ほど身動きしていない。それどころか眉一つ動かしてはいない。
触れれば切れるというのはこういうことを言うのだろうと誰もが思った時だった。
アキラがふと息を吐き、脇に置いてあった茶に手を伸ばした。
緊張の余り喉が渇いた。渇いたことすら気づかなかったのが、今初めて気がついたと言う風だった。
湯飲みの蓋をそっと外し、掌で包むようにして持つ。そしてゆっくりと口の側まで持って行った時、その目が大きく見開かれた。
「進藤」
いきなりの大声に向い側に居たヒカルが驚いたような顔になる。
「進藤、見ろ、茶柱だ」
そんなヒカルにお構いなしに、アキラは嬉しそうな顔でヒカルに湯飲みを差し出した。
「久しぶりに見た。きっと今日は良いことがあるよ」
しんと静まりかえったその次に、ぶふっとヒカルが吹き出した。
同時にアキラがはっとしたような顔になる。
「うん、おれも久しぶりに見た。きっと今日はお互い良い日になると思う」
「いや……すまない。失礼しました」
身を乗り出していたアキラが顔を朱に染めて座布団に戻った。
「あー……塔矢棋聖、対局に関係無い行動は慎むように」
「はい。すみません。本当に」
身の置き所が無いように俯くアキラとは対象にヒカルはまだ可笑しそうに笑っている。
「進藤天元、天元もどうか対局に相応しい態度を保つように」
いつまでも馬鹿笑いしているのでは無いとやんわりと窘められて舌を出す。
「スミマセン。いや、でもあんまり『らしい』ことするから」
くくくと喉の奥でまだ笑っているのにアキラが顔を上げて睨む。
「悪かったって言っているだろう! 茶柱なんて見たのは久しぶりだったし、折角だからキミにも見せてあげようと思っただけだったのに」
「うん。嬉しかった。ありがと」
微笑ましいと言うか何と言うか、ヒカルとアキラの二人は先程までの険のある表情から親しい間柄のそれに顔が変わっている。
けれど周囲に控えている人達は呆気に取られていたり、苛々としたり、責めるような表情を浮かべていた。
無理も無い。今は名人戦の最終局の真っ最中だったのだから。
ヒカルが中央に打って出た後、アキラは盤上を睨んだまま長考に入った。
次の一手で戦局が大いに左右される。そんな時だったのだから不謹慎だと怒られても仕方は無かっただろう。
「塔矢棋聖、進藤天元、そろそろ対局に戻って頂きたいのですが?」
促されて、ヒカルが先に返事をする。
「はい。大丈夫です。丁度良い休憩も取れたし」
「申し訳ありません、お叱りは後で受けますので」
アキラもまた通常の顔色に戻り、座り直した。
「ありがとうな」
盤に目を落とす間際、ヒカルが言った。
「何が?」
「茶柱。うん、きっとおれら今日は良い碁を打てると思うよ」
「別に塩を送ったつもりは無いし、でも良い碁を打てるというのには同感だ」
二人で吉兆を見たのだからと、優しく微笑んでそれからすぐに表情を引き締める。
パチリ。
更に数分が過ぎた後でアキラが盤上に打ち下ろした白石は、ヒカルの黒石を大いに苦しめることになり。この日の対局は後々語られる程の名局となったのだった。
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これ、逆だったらアキラはものすごく冷たい反応で返したような気がするんですよね。そしてしゅんとなるヒカルとか。
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