二人揃って夕飯の支度をしていた。
ぼくはシチューに使うジャガイモの皮を剥いていて、進藤はサラダに使う葉物野菜を洗っていた。
と、手が滑って包丁の刃が親指の付け根に食い込んだ。
「あっ」
小さく叫ぶのと同時に鋭い痛みが走り、ぼたりと熱いものが滴り落ちる。
「わ、おまえ何やってんだよ」
進藤が大声をあげて近寄って来る。
「大丈夫、ちょっと切っただけだから」
実際、それほど力が入っていたわけでは無いので傷は小さかったのだが、意外にも溢れて来る血液の量は多かった。
「ちょっとじゃねーだろ、すごい血じゃん。何かで止血しないと」
「本当に大丈夫だから、とにかく落ち着け」
おろおろと周りを見渡す進藤に渇を入れるように少し強い調子で言うと、ぼくはエプロンで傷を押さえてリビングに向かった。
「向こうで絆創膏を貼って来る。悪いけどキミは汚してしまった床を拭いておいてくれないか」
ぼくが立っていた場所には雨粒のように赤い滴の跡が散っていた。
「わかったか? 進藤」
「あ…うん、解った。了解」
そうして部屋を移動する間もぽたぽたと滴は落ち続け、カーペットだけは汚さないようにとぼくは更に一層強く傷口を押さえた。
進藤は付いて来ること無く素直に床に屈み込んでいて、それを目の端に認めたぼくはほっと息を吐くと救急箱を取りだした。
(まったく、自分の怪我には無頓着な癖に)
舐めておけば治るが口癖の進藤は、そのくせぼくが怪我をするとほんの小さな傷でも大騒ぎをする。
大切に思ってくれているのは解るけれど、もう少し冷静になってくれないと困ってしまうと思うのだ。
最初の一、二枚はすぐに血が滲んでしまったが、貼り替えて三枚目で滲まなくなった。
さてそれではシチューの続きに戻るかと台所に行ったら、進藤がまだ同じ場所に屈み込んでいた。
「進―」
何をやっているんだろう、まさか血を見て気分でも悪くなったわけじゃなかろうなと不安になって近寄った。
「何してるんだ? 大丈夫か?」
進藤はじっとぼくの落とした血の跡を見つめていた。
「いや、キレイだなって」
「は?」
「おまえって血まで本当にキレイだな」
何を言われているか解らなくて、でもその真剣な空気に怖くなる。
「別に血なんてみんな同じだ。バカなことを言っていないでさっさと拭け」
「同じじゃないよ、本当にキレイだって思ったんだ。ずっと前……あの時も」
思い出すような瞳に、進藤が言う「あの時」が何時なのかを理解して首筋が熱くなった。
初めての時、不慣れな故に擦れた皮膚が切れてしまった。
太股を伝う赤い血を進藤は今と同じような目でじっと見つめていたから。
「こんなにキレイなのに、拭いたら消えて無くなっちゃうんだよなあ」
「キミ、何を言って」
「こうしたら、おれの血と混ざるかな」
つと指が血の上を滑る。
「お前の血がおれの体ん中を巡るんだ」
それってなんだか最高じゃね? と、言いながら血に染まった指を口に運ぼうとする。
「ば――」
気がついたら手を振り上げて進藤の後ろ頭を殴っていた。
「何バカなこと言ってるんだ。不潔だから速効で拭け!」
力の加減をしなかったので良い音がして、進藤は思いきり前につんのめった。
「痛ぇぇぇぇぇぇ」
涙目で恨めしそうにぼくを見る。
「何すんだよ、冗談に決まってるだろ」
「キミの冗談は冗談に聞こえない。殴らなければ本当に舐めていたんじゃないのか?」
「えー? うーん、まあ、勿体無いし」
てへっと笑うのをもう一発殴った。
「ぼくの血はぼくの物だ、零れたからってキミになんかあげないよ」
それよりもあまり放っておくと固まって掃除がし辛くなるから三発目を食らう前にさっさと拭けと睨んだら、渋々と雑巾を取って床に置いた。
「あーあ、マジでちょっとやってみたかったんだけどなあ」
未練たらたら言いながら血痕を綺麗に拭き取る。
「キミ、言いたく無いけれど、かなり変態的だよ」
「うん、変態かも。でもさ、ちょっと考えちゃったんだ。おまえの血がおれの中に入って、それでおれの一部になったら」
永遠にお前と一緒に居られるんだなあってと、憧憬の籠もった瞳で言われてぼくはぐっと言葉に詰まった。
「……そうかもしれないけど、床に落ちた血を舐めるなんて不潔過ぎる。それに、だったらキミだけなんて不公平だ。キミの中にはぼくが居るのに、ぼくの中にはキミが居ない。ぼくだって永遠にキミが欲しい」
「あー……そうだな」
そして床に落ちた血痕を綺麗に拭いた後で進藤は立ち上がって言った。
「んと、また変態って言われちゃうかもだけど、こういうのはどう?」
まな板の横に置いたままの包丁を手にとって、それを左手の人差し指の先に当てる。
「な」
何をするんだと尋ねる前に進藤は包丁をすっと横に引いて、そこからぷくりと赤い血が盛り上がった。
呆気に取られるぼくの前にそのまま指を突き出してにっこりと笑う。
「これでおまえの中にもおれが居ることになる。どうよ」
狂気だと思った。
まったくもって正気の沙汰の行為では無い。
理性はそう囁くけれど、感情はそれを完全に無視した。
突き動かされるようにぼくはさっき貼ったばかりの絆創膏を剥がし、進藤に傷ついた左手を差し出した。
「交換だ」
床に落ちた血なんかじゃなく、もっとぼくに近いぼくをキミにあげるよと言い終わる前に進藤の顔が伏せられて、傷跡を温かい舌が舐めた。
「ん、おまえ味。ちょっとアレの味に似てるかも」
嬉しそうに言われて顔が染まる。
「バカ」
苦笑しつつ今度はぼくが彼の指を口に含み、舐るように溢れた血液を舐め取った。
口中に広がる鉄錆の味に顔を顰めつつ、けれど同時に非道く幸せな気持ちにもなった。
まったくの非科学的なことではあるけれど。
「これでキミが永遠にぼくの一部になった」
「おまえもな。ってか、それ先におれが言ったんだから」
真似すんなよと口を尖らせて拗ねて見せた進藤は、でもすぐにやはり笑顔になった。
「……おれら、イカレてると思うか?」
「そうだな。相当におかしいね」
人には言えない。きっと誰にも理解されない。
でもぼく達にとっては確定事項だ。
進藤の血とぼくの血は混ざり合い、ぼく達の一部は融合した。
「そういえばシチューはクリームシチューとビーフシチューとどちらがいいんだ?」
「どっちか決めないで野菜切り出したのかよ」
笑われて少々ムッとする。
「悪いか。鶏肉も牛肉もどちらもあるんだ」
「そっか。んー、じゃあビーフ。それで」
おれもサラダ作っちゃうから、その前にもう一回舐めさせてと言われて、ぼくは素直に手を差し出した。
ぺろりと舌が傷跡を何度もなぞるように舐めあげる。
「おれの中のおまえ成分がちょっと増えたな」
「狡いな。キミの指も貸せ」
引き寄せるようにして進藤の腕を取り、薄く傷の残る指先を口に含む。 舌先で指を絡めて吸いながら、なるほど確かにこれはアレに似ているかもしれないと思った。
下品で、はしたなくて、途方もなく愛しい。
たぶんこれはきっと、世間一般とは違っているけれど、乳繰り合いと言うのだろう。
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