SS‐DIARY

2015年07月04日(土) (SS)夏と飼い犬


「ぼくはゆっくり歩いて行くから帰り道にでも拾ってくれればいい」

ぼくの言葉に進藤は、引き綱を離された飼い犬のように喜び勇んで走って行った。


もうあまり若く無くなって来たし、体力をつけた方がいいと思ってと、マラソンを始めることを進藤がぼくに告げたのは昨日の夜だった。

「おまえもちろん―」

「走らない。でもその時間は当然起きているから、歩いてだったら付き合ってやってもいい」

ぼくの答えに進藤は不満そうな顔をしたけれど、「ま、いいか」とすぐに諦めた。

実際ぼくと彼とでは体力や持久力が全く違う。

体が鈍ってしまうからと今までも時折ジムに通っていた彼と、風呂上がりに柔軟をするぐらいのぼくでは基本スペックが違うのだ。

走ることも別に嫌いでは無いのだけれど、進藤と同じペースで走るのには無理がある。


そして翌朝、いつもなら目覚ましが鳴ってもグダグダと起きて来ない進藤が、有り得ない程早い時間に元気一杯起きて来た。

「おはよっ。さっ、走りに行こうぜ!」

そしていそいそと身支度を調えると、呆気に取られているぼくを急かし始めた。

「ほら、早く行かないと日が昇って暑くなるじゃん」

「だからって水分も持たずに行くなんて無謀だ」

一刻も早く走りたいらしく玄関前で足踏みしている彼を宥めながら、ぼくは水筒にスポーツドリンクを入れると支度をした。

日が差した時のために日よけの帽子を被り、パーカーを羽織る。水筒とタオルを持って靴を履く間も進藤はじれったそうにぼくを急かし続けた。

「早く、早く」

「躾の悪い犬だな。外に出るのも待てないのか」

どうせすぐに飽きてベッドから出て来なくなるくせにと思いながら、それでも早起きをしてスポーツをするというのは良い心がけなので口に出しては言わなかった。

(それに本当に体力作りは必要だし)

もう若く無いという進藤の言葉は言いすぎだと思うけれど、それでも二十代も後半になって来ると徹夜碁が少しキツく感じられるようになって来る。

タイトル戦など日にちを跨いでするような対局の時は更にで、誇張では無く二日間で体重が数キロは確実に減ってしまう。

悪い大人を絵に描いたような兄弟子の緒方さんですら、三十代に入ってからは週一でスイミングに通っているくらいなのだから、今から体力作りを始めて早いということは無いのだった。


「駅前の道、まっすぐに行くと川にぶつかるじゃん?」

その川沿いを橋3つ分くらい走ろうと思っていると進藤は嬉々としてぼくに話してくれた。

「いいよ、でもぼくは歩きだからペースが違う。帰り道にでも拾ってくれ」

「了解。あんまりのんびり歩きすぎて熱中症になるなよ」

たっと軽い足音と共に進藤が前に出る。

あれよあれよと遠くなって行くのを眺めながら飛ばし過ぎだと苦笑した。

(キミこそ張り切りすぎて倒れるなよ)

どんどん小さくなって行く背中に呟きながら、ぼくはほっと息を吐いた。

周囲はもう明るいけれど日はまだ昇ってはいない。ぼくはゆっくりと夏の朝の散歩を楽しむことにした。

店はまだみな閉まっているけれど、民家の扉は少し開いている所が多い。

開いた扉の向こうから聞こえてくるニュースの音声は、ぼくに子供の頃の夏休み、ラジオ体操に行く道筋を思い出させた。

(懐かしいな)

決して活発な子供では無かったが、それでも夏休みらしい過ごし方はそれなりにしていたのだ。

「…朝顔」

夏らしく朝顔を植えている家も多く、紫色や濃いピンクの花弁をぼくは品定めするような気持ちで眺めて歩いた。



駅前の道はやがて高速道路の高架下に差し掛かる。

横断歩道を渡って高架をくぐり、急な坂を上ればもうそこは河川敷だった。

(綺麗だ)

一面の緑に思わず目を細める。

広く流れる大きな川とそれに沿って伸びて行くランニングロード。

頬に当たる風は爽やかで、都内であることが信じられない程清々しかった。


「おはようございます」

ふいに声をかけられて振り返れば、年配のランナーが走って来る所で、ぼくは邪魔にならないように一歩退いた。

「おはようございます」

「ああ、どうも、ありがとう」

その途端、ばさばさと足下から鳥が飛び立った。

餌を探して草むらを歩き回っていた椋鳥や鳩をぼくは驚かせてしまったらしい。それも新鮮な経験だった。

(こんな時間なのに結構走っている人がいるんだな)

さっき追い越して行った老ランナーの他にもたくさんの人が土手の上や下を走って行くのをぼくは軽い驚きを持って見つめた。

スポーツに励む人がこんなにいるのかと感心して、それからすぐ、進藤のようににわかスポーツ熱の人もいるのかもしれないとひっそりと笑った。

何にしても気分が良い。


進藤はと見れば、遠く数�卆茲�らいの位置にぽつんと緑の点が見えた。

蛍光グリーンのパーカーを着て行ったから、恐らくあれが進藤だろう。

実は土手に出たら少しくらい走ってみてもいいかなと思っていたのだけれど、あまりの体力の差を見せつけられて一気に気持ちが萎えてしまった。

あれでは少しも行かないうちに、きっと折り返して来てしまうだろう。

「まあ、別に無理をすることも無いか」

走らなくても土手は充分に気持ち良いし、歩くだけでも少しは体のためになるだろう。

ずっと先まで続く景色の果てに何があるのか見てみたいが、それはたぶん進藤がぼくに話してくれるんだろうと思った。

(きっと喜び勇んで見たこと、遭ったことを教えてくれるんだろうな)

ぼくがさっき見たようなたくさんの鳥達や、すれ違ったランナー達。

鉄橋の下で聞いた電車の走る耳を塞ぎたくなるような轟音。

だんだんと昇って来る日の光に照らされた川面は彼の居る場所とぼくの居る場所で見え方は違うのだろうか。

(さて、どんな骨を拾って来るか)

楽しみだなと、未だ遠くぽつりとした緑の点にしか見えない彼の姿に目を懲らしながら、ぼくは昇り来る暑い夏の日差しに備えて帽子を被り直した。

そしてぼくもまた、見たもの遭ったものの話を彼にしたいと思ったので、改めて周囲を見渡したのだった。



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