爆弾低気圧というヤツだった。
用事があるのでいつもより少し早く碁会所を後にして駅まで向かうその途中で、晴天の空だったのがいきなりバケツを逆さにしたような非道い土砂降りになった。
墨を流したような真っ黒な雲からは切り裂くように稲妻が走り、つんざくような雷鳴が辺りに響き渡る。
(マジかよ)
距離にすれば百メートルも無い。その距離を歩いていて雨宿りをする暇も無くずぶ濡れになったヒカルは、前髪から滴を垂らしながら逆に開き直った気持ちになって歩調を緩めた。
今更急いでどこかの軒下に入っても、既にずぶ濡れなのは変わらないからだ。
「…ってか、こんなんで電車に乗ったらスゲエ嫌な顔されそう」
いやいやこんな急な雨だったんだから他にも絶対ずぶ濡れのヤツがいるはずと自分で自分を慰めていると、ふいに名前を呼ばれたような気がした。
「――どう」
叩きつける雨と忙しく行き来する傘を差した人々との合間から確かに声が聞こえた気がする。
「しん――」
「――どう」
目を懲らすと、誰かが自分の名を呼びながらこっちに向かって走って来るのが見えた。
「しんど―う」
「とっ!」
(塔矢!)
聞き覚えのある声はついさっき別れたばかりのアキラのもので、アキラは飛沫の上がる雨の中、傘も差さずにヒカル目指して走って来るのだった。
「進藤っ」
人混みをかき分けるようにして現れたアキラは飛びつくようにヒカルの腕を掴むとそのまま苦しそうに下を向いて息を吐いた。
「どうしたんだよ、おまえ」
「か――キミに―」
息が荒くて聞き取りにくいが、何やらヒカルに用があるらしい。
こんな雨の中、傘も差さずに血相変えて追って来るなんて何事だとヒカルは心配になってアキラの顔を覗き込んだ。
「何? おれに何の用が―」
問いかけるヒカルにアキラはまだ息が苦しいようで無言で右手に持っていた物を突きつけるように差し出した。
「は? 何?」
「傘、キミ―持っていなかっただろう」
やっと少し息が整ってアキラが顔を上げて言う。
え? は? とヒカルはわけが解らずに傘とアキラを交互に見る。
「キミが出て―行って、すぐに―土砂降りになった―から」
やっとアキラの言っていることが理解出来た。
あまりの非道い雨の降りようにアキラはヒカルに傘を届けに来てくれたらしいのだ。
「良かった…キミ、足が速いから中々追いつけなくて―」
「そんなことのためにおれのこと追いかけて来たん?」
「―だってキミは傘を持って無いし、傘が無ければ濡れてしまうし」
「いや、確かに持って無かったけどさ」
そして嫌になるほどずぶ濡れにもなったのだけれど。
ヒカルは目の前のアキラをまじまじと見た。今日は午前中に指導碁に行ったとかでアキラは地味だけれど仕立ての良い高そうな服を着ていた。それが今や自分と同じ全身濡れ鼠になってしまっている。
「おまえ、なんで傘差して来なかったんだよ」
「え?」
「傘! 届けてくれたのはいいけどさ、だったら自分も差して来いよ」
ヒカルの言葉にアキラは初めてそれに気がついたようで驚いた顔になった。
「そうか! そうだね」
キミに傘を届けなくちゃってそれしか考えていなかったから全然気がつかなかったと、にっこりと返されてヒカルの胸はつきんと痛んだ。
(いつもは絶対こんな顔しやがらないのに…)
雨に濡れたせいか、はたまた全速力で走って来たせいか、アキラは普段の大人びた表情が消え失せて、どこか幼くさえ見えた。
「こんなんで―」
「ん?」
(こんなんで、好きにならなかったら嘘だよなあ)
アキラの笑顔はあまりに無防備であまりに可愛くて、ヒカルはとっくの昔に自覚していたことを改めて思い知らされてしまった。
「なんだ? 進藤?」
ため息のように息を吐いたのを見咎められる。
「いや、なんでも無い」
それよりも折角傘があるんだから、いい加減おれ達も差した方がいいんじゃないかとヒカルは話しながら傘を広げようとした。そして唐突に声を上げる。
「うわ」
つられるように見上げたアキラも大きく目を見開いた。
今の今まで降っていた激しい雨がいつの間にか上がっていたことに気がついたからだ。
耳を塞ぎたくなるような大音量の雷鳴もいつの間にか遠ざかり、あろうことか雲の切れ目から青空が覗き始めている。
「なんだか化かされたみたいだ」
ぽつりとアキラが呟いたけれどヒカルも全く同じ気持ちだった。
ほんの数分とは思えない程の劇的な天気の大変化だった。
「傘…いらなかったね」
苦笑したようにアキラが言う。
「無駄なことでキミを足止めしてしまった」
「無駄じゃないよ」
反射のようにヒカルが言った。
「少なくともおれにとっては全然ちっとも無駄なんかじゃ無かった」
そしてアキラの手を握ると、いきなり来た道を戻り始めた。
「進藤?」
「碁会所戻ろう。それで打とう」
「でもキミ、用事があって帰るんだったろう?」
引きずられながらアキラが言う。
「無い。つーか、今無くなった。だから何の心配も無く、おまえおれと後数時間ゆっくり打てるぜ?」
アキラはわけが解らないという顔をしている。
「なんだよ、おれと打ちたく無いのかよ」
「そんなことは言っていない。ただ…」
キミがあんまり唐突だからと呆れたように言いながらもアキラの顔は嬉しそ うだった。
言葉にも態度にも出さなかったが、ヒカルが早く帰ってしまうことを内心寂しく思っていたからだ。
「いいんだよ、天気と同じ! 予定だってなんだってその場でコロコロ変わるもんなんだよ」
「なんだそれは―」
あまりの無茶苦茶な言い分にアキラはとうとう笑い出した。
「本当にキミは解らない」
「そんなの解られたらおれも困るって」
軽口を叩きながら雨上がりの道を急ぎ足で歩く。
空は綺麗に晴れ上がり、地面が濡れていなかったなら雨が降っていたなどと信じられない程だった。
正に爆弾を落としたような一瞬の出来事。
未だぽたぽたと髪から滴を垂らしながら、それでもヒカルとアキラは満足そうな笑顔で、雨上がりの街をしっかりと手を繋いで歩き続けたのだった。
※※※※※※※※※※ すみませんねえ(^^;母の日なのに母の日話じゃなくて。
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