| 2013年05月10日(金) |
(SS)夜明けのコーヒー |
窓を開けると馥郁たる香りが鼻孔をくすぐった。
(どっかの家でコーヒーを入れてる)
窓を半開きにしたまま閉じるべきか網戸にするべきか迷ったヒカルは、6時にしては強い日差しを見上げると窓を全開にして網戸を引いた。
そうしてから自分もコーヒーを入れるためにキッチンに向かったのだが、その前に寝室に寄ると、薄い掛け布団の中でダンゴムシのように丸まって寝て居るアキラに向かって言った。
「コーヒー入れるけど飲む?」
しばしの沈黙の後、地獄の底からのような低い声が「飲む。思いきり濃くしてくれ」と言った。
「ストロングね。はいはい」
ヒカルはそれ以上尋ねずにキッチンに向かうと、コーヒーメーカーの電源を入れる。
本来紅茶好きでコーヒーはあまり飲まないアキラが飲むと言うのは決まって『した』翌朝だ。
何も予定の無い日ならば夕方頃まで眠ってしまい、そこそこ機嫌良く起きて来るのだが、仕事なりなんなり予定が入っていて起きなければならない時は無理矢理意識を引き戻すために濃いめのコーヒーを飲むのだった。
(まあ、おれが加減出来ないから悪いんだけどさ)
棋士という職業上、ヒカルとアキラは常に一緒に居られるわけでは無い。
オフ日が合致することが希ならば、遠方での仕事で一週間顔を合わせないこともある。
だからこそ会うとお互い歯止めがきかなくなって、結果、アキラには大変体に負担を強いることとなるのだ。
(夕べ、何回だ? 三回…いや、四回やったか?)
回数がわからなくなるくらい夢中になって交わるのはどうかと理性では思うのだが、アキラを目の前にしたらヒカルはもう止まらない。
だから翌朝アキラにどんなに不機嫌に当たられても仕方無いと思っているし、罵られても殴られてもそれを甘んじて受けなければならないと思っているのだが、それにしても昨夜は少々やりすぎてしまったとひんやり思う。
「…いつもより、もちょっと濃いめにしとくか」
コーヒーメーカーに入れるコーヒーをスプーンで一杯半多くした。
それでもたぶん、アキラは二杯目を飲み終わるまでは般若のような恐ろしい顔でヒカルを睨み続けることだろう。
ヒカルが門脇から譲り受けたコーヒーメーカーはかなり旧式なので入れる際に非道い音がする。
けれどそれを越えるとコポコポと耳に心地良い軽い小さな音に変わり、同時に香ばしい良い香りが部屋中に漂い始めるのだった。
「うん、いー匂い」
ヒカルはマグカップを二つ食器棚から取り出すとあと少しで入れ終わるコーヒーメーカーをぼんやりと眺めた。
アキラと付き合い始める前は寝起きは決して良くは無かった。
どちらかというと人に起こされる側だったのに、恋人が低血圧で自分よりさらに寝起きが悪く、けれど仕事や約束事に遅刻して行くのは死んでも我慢が出来ないという人間だったので、自然それより早く起き、少しでも穏便に起きて貰うよう世話を焼くようになったのだった。
『おはようお姫さま』
半分ふざけていたとは言え、初めて事にいたって迎えた朝のことは今でもヒカルは忘れられない。
甘いキスと戯れで恋人らしく過ごす予定の早朝に問答無用で歯が欠けるほどぶん殴られたからだ。
『うるさい』
あまりのアキラの剣幕にヒカルは怒るよりも驚いてしまい、同時に深く肝に刻んだ。
寝起きのアキラには迂闊に触るまいと。
そして現在、随分アキラの扱いには慣れたとヒカルは思っている。
さっき声をかけ微かに意識を取り戻したアキラは、寝室まで漂うコーヒーの香りに少なくとも夢の世界からは戻って来たことだろう。
後は逆鱗に触れないよう静かに声をかけ、コーヒーを差し出すだけでいい。
意識がはっきりしても体に不快が残っているアキラは決して機嫌良くはならないが、ふいうちで殴って来ることだけは無くなるし、出がけにちゅーの一つくらいは許してくれるようになるかもしれない。まあ希望的な観測だが。
「…飲むか?」
マグカップを持って寝室に行くと布団の下から手だけが伸びた。
「はい、熱いから気をつけろよ」
そして慎重に持たせると自分はアキラの寝て居るすぐ横に腰掛ける。
アキラはマグカップを受け取ると、そっと顔を覗かせて、まだほとんど閉じているような目でコーヒーを飲んだ。
「ご注文通り濃いめにしたからな」 「…苦い」 「そりゃストロングもストロング、ベリーストロングバージョンにしたから」 「それにしたって苦すぎだ」
薄ければ薄いで文句を言うアキラの言葉は聞き流して、ヒカルはじっとコーヒーを飲むアキラを見続けた。
ゆっくりと、非道くゆっくりと熱いコーヒーを飲み干したアキラは空のカップを黙ってヒカルに差し出した。
「うん、お代わりな。今いれてくるからちょっと待ってて」
そうしてすぐに持って来ると再びそっとアキラに渡す。
今や部屋中はコーヒーの良い香りで満たされて、それはさっき開いた窓から漏れだして辺りにも広がっているだろう。
(まったく、夜明けのコーヒーなんて言うけどさ)
こんな色気も素っ気もない夜明けのコーヒーがあるだろうか。
(普通はもっと甘い言葉でささやきあったり、朝からいちゃいちゃ乳繰り合ったりするもんだよなあ)
それが出来ないことは少々残念なことではあるが、相手がアキラなのだから仕方がない。
それに―。
ヒカルが見守る中、二杯目のコーヒーを飲み干したアキラはまたヒカルに空になったカップを差し出した。
「もう一杯飲むん? さすがに胃に悪いんじゃないか」
すると、ブンと乱暴にカップが振られて危うくヒカルは殴られそうになった。
「っ、あっぶねー」 「誰がお代わりなんて言った」
布団の下からヒカルを見ている瞳が不機嫌に睨め付けている。
「違うの? あ、それじゃメシ? それとも朝からシャワー浴びに行きたいのかよ」 「違う!」
険のある声が怒鳴り、それからヒカルに本当にマグカップを投げつけて来た。
「わっ、やめろって、さすがにおれでも怪我するってば」
すんでの所でカップをキャッチしたヒカルはため息をつきながらアキラを見つめた。
「なんだよ今日はいつもより目覚めが悪いなあ」 「キミが飲み込みが悪いからだ」
相変わらずの地獄の底からの声が言う。
「何が。コーヒーちゃんとやったじゃん」 「コーヒーはいい。もう目は覚めた」 「だったら?」 「キミが足りないから隣に来いとそう言いたかっただけなのに」
どうしてそうも解らないのだと、そりゃあそんなこと言ってくれなきゃ解らないと思いつつヒカルはニッと嬉しそうに笑った。
「行ってもいいの?」 「ああ。来いと言っているのに何故念を押す」 「いやあ…今までの経験からちょっと…」 「来たくないなら来ないでもいい!」
苛ついたように怒鳴るアキラにヒカルは慌てて布団を捲った。
アキラは相変わらずヒカルを思いきり睨んでいて、その眼光は恐ろしい。でも頬はほんのりと照れたように赤く染まっていた。
「うん」
(やっぱ訂正)
こんな可愛いもんが見られるんだから夜明けのコーヒーも捨てたものじゃないと思いながらヒカルはいそいそとベッドに上がり、凶暴な恋人を優しい腕でぎゅっと抱きしめたのだった。
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一人で居る時はちゃんと起きられるくせに、ヒカルと一緒に居ると途端に寝起きが悪く、猛烈に不機嫌なアキラって言うのに結構萌えます。 だってそれって甘えているからだから。
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