こほっと咳込んだら、兄弟子に心配された。
「あれーアキラ、もしかして風邪ひいちゃった?」 「いえ、そういうわけでは無いんですが」
喉が痛んで唾を飲み込んだ時にひっかかったのだ。
「ん? なに? 塔矢風邪ひいたの?」
少し離れた場所に居たのに、こういうことには目ざとい進藤がわざわざぼくの側に来て覗き込むようにして言った。
「おまえクソ真面目だから夜遅くまで棋譜の整理でもしてたんだろう」
体調管理も仕事の内だぜとにっこりと笑うので、思わずその頬を張り倒してやりたい気持ちになった。
「ご注進どうも。でもさっきも言ったように風邪なんかじゃないから」
単に喉が痛いんだと言ったら進藤は心持ち眉を上げ、ふうんと意味深に呟いた。
「そっか…」
なるほどと続く言葉に更にムカつく。
「おまえ、今日は喋る仕事あるんだっけ?」 「無いよ。指導碁はあるけど支障の無い程度の痛みだし」 「司会は緒方先生? 開会の挨拶とか閉会の挨拶とかも無し?」 「無いよ、しつこいな」
新年最初の仕事である打ち初め式にどうしてこんな喉を痛めて来るはめになったかというと、叫びすぎたからだった。
目の前に居るこの憎らしい男の名前を夕べ一晩数え切れないくらい叫んだ、そのせいなのだ。
「まあ、いいけど、後でのど飴でも買って舐めた方がいいぜ」 「言われなくてもそうする」
溜息をつきつつそう言ったら、進藤は何事も無かったかのように去って行った。
「大丈夫、アキラ? ぼく今暇だからのど飴買って来ようか?」 「大丈夫です。そこまで非道いものじゃありませんから」
兄弟子に答えながら視線はずっと進藤を見る。
お客さんに囲まれて明るく笑っているその顔は昨夜の薄暗い中での貪欲な顔とは大違いだ。
ぼくの体を押さえつけ、爪が食い込むほど強く腕を握りしめて、焼け付くような熱さでぼくの中に挿って来た。
喘ぎと、汗の滴と遠くに聞こえる時計の針の音。
その中でぼくはただひたすらに彼の名前を呼んだのだ。
「―アキラ?」
自分の考えに沈み込んでしまっていたらしい、芦原さんに心配そうに見つめられていた。
「やっぱり本当は調子が悪いんじゃない? なんだったら掛け合って早く帰れるようにしてもいいよ」 「芦原さんはぼくを甘やかし過ぎですよ。本当に大丈夫です。咳込んだのもさっきだけだし、今はもうそんなに引っかかりも感じ無いし」
ただ腹が立つだけだ。
ぼくをあれだけ叫ばせておいて何も知らないかのように呑気な顔をしている彼に。
「ちょっと…蹴って来ます」 「あ、うん。……ええっ?」
驚いたような顔の兄弟子を残し、ぼくは真っ直ぐに進藤に向かって歩いて行った。
これはやはりどうしても蹴りの一つか腹に一発入れないと気が済まないと思ったからだ。
進藤はぼくが近づいて来るのに気がつくと、待ち受けるようにニヤリと笑った。
(本当に食えない)
いつのまにあんな嫌な性格になったのだと思いつつ、ぼくは彼の期待に応えるべく、目の前に立つや否や、思いきり靴の踵で膝に蹴りを入れたのだった。
※※※※※※※※※※
相当痛かったと思いますよ、ヒカル。
|