※昨日の「嘘の代償」の続きです。
進藤はあれから空っぽになってしまった。
手合いには普通に出ているし、勝率も別に悪く無い。研究会にも積極的に参加しているし友人達との付き合いもいつも通りだ。でも、ぼくを見る目にだけは感情が無い。
「おはよー、おまえ早いな」
最初は口もきいてくれなくなるものと思っていた。
あれだけのことをしたのだ、無視されるものと思っていたのに、泣かせてしまった日から数日後、会った時にはごく普通に彼の方から話しかけて来たのでほっとした。
「進藤、この前は―」 「おれ、今日は和谷達と終わったらゲーセン行ってUFOキャッチャーやって来るんだー」
どうしても欲しいフィギュアが景品で出ていてと、ぼくの言葉を途中でぶった切って、なのに気にした風も無く自分の言いたいことだけをそのまま続ける。
「進藤?」 「上野かアキバまで出てもいいんだけど、あそこら辺、取らせてくれる気がねーんだよな」
そうしてから「ん?」とぼくを見て微笑んだ。
でもその目は笑って無い。笑っていないどころか何の感情も映してはいなかったのでぼくはぞっとした。
「キミ―」 「そうそう、門脇さんに頼まれてたんだ。今度塔矢門下の研究会にも出てみたいって、そーゆーの有り?」 「あ、ああ。別に大丈夫だと思う」 「じゃあ伝えておく。それで連絡用にメアド教えるけどいいよな?」 「あ…うん」
全てが全てこんな感じだった。
ぼくが話しかけると彼はちゃんと応対する。それに何ら変な所は無い。けれどそこには一番大切なぼくに対する感情というものが欠落してしまっているのだ。
(やっぱり怒っているのか)
最初そう思って、でも違うと思った。
怒りすら彼の中には無かったから。彼の中にあるのはただひたすらの虚無。 ぼくに対する彼の感情は死んでしまったのだと思った。
(ぼくが殺した)
子どもではあるまいし、言っていいことと悪いことの区別がつくはずのこの年で、ぼくは人として絶対にしてはいけないことをした。
そしてこの世で一番大切な人の心を自ら殺してしまったのである。
今の進藤はただ生きているだけだ。
ぼくに関する以外のことではどうか知らない。
でも少なくともぼくに関することでは、ただ自動的に動いているという感じだった。
(どうしたらいいんだろう)
俯いて涙をこぼした彼の姿はまだぼくの瞼に焼き付いている。たぶん一生忘れることなんか出来ないだろう。
何度も何度も謝って、でもその声はまだ一つも進藤の耳には届いていない。
そんな風にぼくが彼をしてしまった。
「進藤…」 「なに?」 「今日ぼくの家の碁会所で打って行くか? 市河さんが美味しいものがあるからって」 「いや、止めとく。また今度誘って」
そして誘っても進藤はぼくの誘いを受けることが無くなった。なんだかんだ理由をつけてやんわりと断って来る。
ぼくを誘って来ることも全く無くなり、忙しいからだろうと理由をつけても、和谷くん達とは行動を共にしているから、本当に忙しいわけでは無いんだろう。
いくらぼくが馬鹿でも少しずつ距離を開けられて行っていることは解っていた。
表立っては何も無く、でもきっとこうして彼はぼくという存在を彼の中から少しずつ遠ざけ、何れ完全に消し去ってしまうつもりなのだろうと思った。
それだけのことをぼくはしたから―。
「…馬鹿なことをした」
傷付けようなんて、好きな人を傷付けようなんて馬鹿なことを思ったからこんな手痛い罰を受けたのだ。
「進藤、キミはもうぼくを一生許してはくれないのかな」
無駄だと解っていてもぼくは彼に会うたび許しを請うた。
「それでもいい、許してくれなくてもぼくはいい。だってぼくはキミをそんなにも傷付けたんだから」
進藤は間近でぼくが喋っていても何の反応もしない。殊にあの日のことについては顕著で、たぶんぼくの言葉は聞こえてすらいないんだろうと思う。
「ごめんね、非道いことをしたね。でもぼくはキミが好きだから…好きで好きでたまらないから、キミがぼくを見なくても、ぼくの言葉を聞かなくても、これからもずっとキミの側に居る」
お願いだから居させて欲しいと泣いて願った。
そしてぼくはそれからも彼から離れること無く、側に居た。
彼の方はゆるやかにぼくから離れようとしていたけれど、ぼくはそれでもしつこくつきまとって、聞こえていない耳に謝罪の言葉を繰り返した。
春も夏も秋も―。
季節が移っても進藤の中は空っぽのままで、ぼくはそんな彼を逃してやることもせずに、ただずっと側に居た。
冬も、そして再びの春も。
相変わらず彼の目にはぼくは映ってはいなくて、側に居て話しかけても反射のように感情の無い言葉を返して来るだけだったけれど、それでも離れたくないと強く思っていた。
だって進藤はずっとぼくを好きでいてくれたから。
喧嘩した時も、つまらない嫉妬でぼくが無視し続けた時でも、決してぼくから離れなかったから。
夏と秋と、またあっという間の冬が来る。いつしかぼくは謝罪の言葉を口にしなくなり、ただ静かに彼の側に居るようになった。
話すことは他愛の無いこと。進藤が聞いていても聞いていなくても、構わずにぼくは静かに彼に語りかけた。
季節を2回ほど巡らせ、それでも相変わらずぼく達の関係はそのままで、表面的な付き合いと碁だけは順調に続いていた。
そして再びの春が来た時だった。
ぼく達は市ヶ谷の桜堤をゆっくりと二人で歩いていた。
桜を見に行こうと誘ったのはぼくで、彼は相変わらず反射のように「いいよ」と答えたに過ぎ無い。
ぼんやりと、何も映さない瞳で彼はぼくを含めた全てを眺め、ゆっくりと本当にゆっくりと歩いていたのだけれど、道のりの半ばほどを過ぎた時に唐突に振り返った。
「なんか飲みもん買って来ねえ?」
驚いてぼくは彼を見詰めた。
「喉渇いたし、折角桜見ながら歩いてるんだから食いモンとまでは言わないけど、何か飲むもんあった方がいいんじゃねーかな」
それは投げかけられた言葉に対する自動的な言葉では無かった。彼の方から意志を持ってぼくに対してかけられた言葉だった。
一体どれくらいぶりだろう?
「何が…いい?」
驚きのあまり語尾が震えるのを隠せない。
「普通にフラペチーノとかでいいんじゃん? あ、でも何か季節のメニューがあったらそれもいいなあ」
もう二度とこんなことは有り得ないと思ってた。
彼が瞳にぼくを映し、ぼくに向かって話しかけて来るなんて。
「わかった、じゃあ…季節ものがあったらそれを…買って来るよ」
それが、ぼくの心ない言葉で切れた進藤とぼくとの時間が再び繋がった瞬間だった。
許されたわけではきっと無い。
でも少なくとも進藤は、ぼくを居ないものとして自分から排除するのを止めたのだった。
「ごめんなさい」
泣くまいと思っても涙が溢れて止らない。
「ごめんなさい、進藤」
そしておかえりと、泣きじゃくるぼくの顔を進藤は長い間黙って見詰めていた。
「あんな…非道いことを言って…傷つけて」
しゃくりあげそうになるのを必死で耐えるぼくに、彼は困ったような顔をして、でも懐かしい声で言ってくれた。
「ただいま」
それは紛れも無い、失われる前にぼくに常に向けられていた進藤の愛情の篭もった優しい温かい声だったので、ぼくは人が見るのも構わずに大声で叫ぶように泣いてしまった。
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リクエストを頂きましたので、昨日の話の続き、仲直り偏。でもきっと想像されていた物とは違ったのではないかな(^^;
もっとラブラブなハッピーエンドにしたかったですが、人が人を真に傷付けた時、有り得るのは劇的な何かでは無く、気が遠くなる程の時間とこんなふうな静かな和解とも言えない和解なんですよ。
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