SS‐DIARY

2012年08月06日(月) (SS)生きるに足る


もしも進藤がいなかったら、ぼくの世界は非道くシンプルだ。

朝起きて、仕度して棋院に行く。又は研究会に参加して帰る。

時に緒方さんや顔見知りの方から誘われて食事に行くこともあるかもしれないけれど、基本的にぼくとしてはそれは『仕事』の範疇になる。

帰ってからは打った碁を振り返って並べてみて、もしお父さんがいれば意見を聞く。

ネット碁で気張らしに打つ時もあるだろうけれど、大抵はきっと溜息をついただけで終わるに違い無い。

(つまらない)

そして、もっと心躍るような碁を打つ相手はいないものかと思いながら布団に入って眠るんだろう。

朝が来ればまた同じ1日の繰り返し。

手合いに行ってもぼくに話しかけて来るのは事務的な『用事』のある者しかいない。

若手の飲み会にも誘われることは無いし、万一誘われても義理というのがわかりきっているので空気を読んでその場で断る。

皆が笑いさざめいている中、ぼくが入ると場はきっとしんとする。

嫌われているという程で無くても疎ましく思われていることをぼくは自分で知っている。

子どもの頃からのことだし、付き合いやすい人間でも無いということを理解しているのでそれをどうとも思わない。

でも、もし…、その中にたった一人ぼくを見つけ、ぼくを呼ぶ人が居たとしたら世界はどんな風に変わるだろうか?




「塔矢!」

ぼうっと考え事をしながら歩いていたら、自販機の手前で進藤に腕を掴まれた。

「何やってんのおまえ、目ぇ開けながら寝てるのかよ」
「失礼な、ちょっと考え事をしていただけだ」
「だからってそんなデカい物見過ごすかよ。そのままだと完全に体半分ぶつかったぜ?」

進藤は少し離れた所で友人達と話していた。今日も元気で楽しそうだなあとそちらに気を取られていたのが悪かったのかもしれない。

進藤はぼくが来たのを見て、ぱっと嬉しそうな笑顔になって、ほぼ同時に慌てた顔になって走って来たのだった。

「天才とナントカは紙一重って言うけどさあ、おまえちょっとボケ過ぎなのと違う?」
「ぼくは別に天才じゃないし、ボケてもいないよ」
「だったらどうして自販機にまっすぐ向かって行けるんだよ」

見守る皆はいつものことと苦笑交じりに笑っている。

あいつらまたやっているよと、よく飽きないなと、そう言って笑う目は呆れてはいるけれど皆優しい。

「とにかく、手合い前に自販機にぶつかって気絶なんてのは無しだからな」
「…キミじゃあるまいし、そこまで体を張って笑いをとるつもりは無いよ」

つい先日、進藤が入り口のガラス戸に余所見をしていて思いきりぶつかったことを当てこすって言ったら、あちこちでくすくすと笑い声があがった。

それくらい見事な転けっぶりだったのだ。

「塔矢ー、その話題NGだっておれ言わなかったっけ」
「ああ…そうだったかもしれない。ごめん」

ぼくとしては素直に謝ったつもりだったのだが、進藤にはしれっと言ったように聞こえたらしく、みるみる顔が真っ赤になると、むうっと尖った口でぼくに言った。

「絶交! おまえとはもう絶交だっ!」
「…うん、わかった」
「本当に本当に絶交だかんな。もうおまえとは遊んでなんかやらないんだからな」

一体どこの小学生だと言うようなことを進藤は涙目で真剣にぼくに言う。

「わかってるよ。本当に絶交するんだね」
「そう。だからおれに声かけて来るなよな」

そしてぷいっと横を向くとまた和谷くん達の元に行ってしまった。

でも誰も慌てもしないし、ぼく自身も苦笑するのみで静かに彼を見送った。

何故なら進藤は、本当に深刻な喧嘩をした時以外は数時間で機嫌が直ることが常で、今日もたぶん打ち掛けの時にはこのことを忘れたかのように、ぼくを昼に誘いに来るのに決まっているからだ。

『塔矢、メシ食いに行こうぜ。頭使ったから腹減った』

そしてぼくを引きずるように和谷くん達が待つ所に連れて行くだろう。

それが日常。

ぼくが彼と出会ってからのありふれた日常だった。

(なんて幸せなんだろう)

靴を靴箱にしまいながらぼくやりと思う。

もし彼が居なかったら、ぼくは今も誰とも話さずまっすぐに控え室に行っていたことだろう。そして時間が大分早いにも関わらず、盤の前で座って今日の対局相手を待っていたに違い無い。

それがどうだ、会って数秒で喜ばれて、心配されて怒られる。なんて目まぐるしいことだろうか。

(毎日が眩しい)

同じように靴をしまい、控え室に向かう進藤を眺めながらそう思う。

ちらっと目が合ったら、ぷいっとわざとらしく顔を背けるのが可笑しくて愛しくて笑ってしまった。

「何笑ってんだよ!」
「なんでも無い」

世界はキラキラと輝いている。騒がしくて煩わしくて、たまらなく陽気だ。

「キミがいるから…」

ふくれっ面の彼には聞こえ無いように、ぽそっとぼくは口の中で呟いた。

キミが居るから、今日もぼくの世界は鮮やかで美しく、生きるに足る物となるのだと。



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