SS‐DIARY

2012年07月31日(火) (SS)囲碁王子の憂鬱


その日、進藤ヒカルは『王子様』と呼ばれていた。

というのは朝、棋院に向かう電車の中で、見ず知らずの女性に着ていたシャツを脱いで肩にかけてやるという行為を行ったからだ。


「進藤王子、話聞いたぜ」
「おう、さっき古瀬村さんが探してたぞ王子」
「ヒカル王子、この間貸した五百円返して」

王子、王子、王子でヒカルはすっかり腐ってしまった。

「うるせーんだよ、誰だってフツーにするだろ、あれ見たら」
「いや、無理」
「うん、無理。変質者とか言われるのがオチだもん」
「そーそー、逆ギレされてひっぱたかれるか痴漢扱いされるかもしれないのにうっかり声なんかかけられないね」

どういうことかというと、その日は珍しく朝から天気予報が思いきり外れたのだ。

一日晴天、降水確率0%と言われたのが、ちょうど皆が通勤、通学で移動している時間帯に大雨が降った。

すぐにからりと晴れたが、傘を持たずにずぶ濡れになった者は多く、彼女も恐らくその一人だったと思われる。

時は夏、しかも連日猛暑が続いたその日、ヒカルとさして年頃の変わらない彼女が着ていたのは白い綿のチュニックで、下もほぼ同じ色の白いハーフパンツだった。

それがびしょ濡れになって肌に張り付き、完全に下着が透けて見える状態になっていたのである。

しかも彼女は濃い青の下着を上下ともつけていて、そのせいでぱっと見、下着姿で電車に乗っているかのように見える。

もちろん、車内の視線は釘付けだ。

誰もが皆濡れているし、同じように透けてしまっている女性もちらほら居る。

けれど彼女のように上も下も完全に透けてしまっているのはたった一人だけだったのだ。


「おい、アレすげーな」

こそっと隣の男が友人らしい男に耳打ちするのを聞いて、初めてヒカルは彼女に気がついた。そして、あーあと思った。

(どういうプレイだよ、あれ)

本人も自分の状態が解っているようで、ただ恥ずかしそうに下を向いている。

ぽたぽたと滴る滴が顔にも落ちて涙のように見えたけれど、もしかしたら本当に泣いていたのかもしれない。

一度電車に乗ってしまえば帰るにしても人の目に晒されるし、社会人ならそんなことで休むことも出来ないからだ。

見回して見ると、少なくとも周囲の男共は見ないふりをしてちゃんとじっくり彼女を見ていた。

体は細いが結構バストはしっかりあって、だから余計に目が離せなくなってしまうのだ。

男だけならまだしも、「やーだ」と言ってくすくすと笑いながら、女も結構な数が彼女を見ている。

ヒカルはそんな有様を見て、すぐに羽織っていたシャツのボタンを外すと脱いで、それを持って人混みをかき分けた。

そして注目の的である彼女の前に立つと、シャツを肩に羽織らせてやったのだった。

ヒカルは背がものすごく高いという程では無いけれど、それでも彼女より優に二十センチは高い。

シャツの裾はちょうど彼女の膝上くらいになって、上手く下着の透けを隠した。

えっと顔を上げるのに言う。

「それ、安モンだから返さなくていい。それから、今の時期夕立とかもあるんだからさ、濡れても困らないように羽織るもんくらい持って出た方がいいと思うけど」

そしてそのまま、守るように市ヶ谷まで隣に並んで立っていたので、先程のように彼女がじろじろ見られることは無かった。

あからさまに舌打ちをする者もいたし、助けてもらった当の本人も半分胡散臭そうにヒカルのことを見ていたけれど、何も言わずに下りようとするのを見て初めてはっとしたように頭を下げた。

「あっ、ありがとうございました」

ヒカルはそれをちらりと見て、でも何も言葉は返さずに黙って改札に向かったのだった。


その日は手合い日で、当然同じ電車、同じ車両に関係者は居た。

大勢はいなかったが複数の者が最初から最後までを見ており、棋院に到着すると、どうしてヒカルがランニングにジーンズというラフ過ぎるスタイルで手合いに来たのか事情を話して回ったのである。


「王子、さっき篠田先生が呼んでたから早く行けよ」
「うるせえ、今度王子って呼んだらブッ殺す」

イライラした口調で返しつつ、ヒカルは大きく溜息をついた。

「機嫌が悪いね」

そんなヒカルを見詰めながらアキラが言う。

「別に悪いことじゃ無いじゃないか、良いことをして王子呼びされているんだから堂々としていればいい」
「ヤだね。からかわれているのが解ってて、嬉しいなんて思えるか」

彼女を助けたのは、ヒカルにしてみれば、ごく当たり前のことだった。

一人っ子で女兄妹はいないものの、幼稚園からの付き合いの幼馴染みがいるヒカルは、雨の日に服が濡れて嫌らしい目で見られて困ったなどという愚痴を今まで何度か聞かされている。

大変だなあと思ったし、でもまあ男だったら無理無いよなとも思ったし、そもそもそんな透けるような服を着てこなければいいんじゃんとも思った。

『わかってないなあ、女にはね、男にはわからない事情ってものがあるのよ』

好きな人に可愛く見られたいとか、好きな人に綺麗に思われたいとか、とにかく色々!と。

憤然として言われて、それでもよくわからねえと思ったが、今日電車の中で正にその服が濡れて困っている女性を見た時に、ヒカルは純粋に気の毒としか思えなかった。

(まあ、あれだよな、乾いていればフツーに可愛い服なんだろうし、今日雨が降るなんて思っても見なかったんだろうし)

いわばこれは事故ではないのかと。

事故なのに、それをじろじろと見るのは見る方が悪い。そしてその他にもう一つ思う所があったのだけれど、それは胸に秘めている。

「皆言っているけど、普通は思ってもなかなか出来ることじゃないよ、自分が着ているシャツを脱いで渡すなんて格好いい真似は」
「しょーがねーだろ、それしか渡せるもんが無かったんだから」
「それにしたって…」

ヒカルがキレそうなのは、皆にからかわれているだけでは無く、アキラにやんわりと嫌みを言われているからだった。

万一を考えて、人に言われる前に言ってしまおうと、会ってすぐに事の顛末を話したのだけれど、明らかに塔矢アキラ様のご機嫌は斜めになった。

「…焼き餅妬き」

ぼそっと小声で言ったら「何か言ったか?」と満面の笑みで聞き返されてしまった。

「べっつにー」

この話題、いつまで引っ張られるんだろうかとか、いつまで王子呼ばわりされるんだろうかと色々巡って憂鬱な気分になって居たら、再度王子と声をかけられた。

「うるせえって!」
「いや、だから篠田先生が呼んでるって言ってんのに! 行かないとおれ知らないぞ」
「篠田先生が?」
「なんでも朝の『お姫さま』がお礼を言いに来てるって」
「はあ? 嘘だろ」

ヒカルは呟いて考え込んだ。初対面の相手なのにどうして自分の素性が解ったのだろうかと思ったのである。

「あっ! ポケットにこの間会った八重洲分院の人の名刺が入っていたかも…」

きっとそこから辿ってここに到達したのだろう。

「良かったじゃないか。逆シンデレラだな」

自分を探す手がかりを残しておくなんて抜かりがないなとアキラに氷のような声で言われてヒカルの口がへの字に曲がる。

「だって…しょーがねーじゃん」
「うん、キミは単に紳士だっただけだろう?」

嫌味の切れ味が半端無い。

「だからどーして、そーゆー…」
「いいからさっさと行って来たらどうだ? 打ち掛けの時間も終わってしまうし、せっかく訪ねてくれたその人を待たせても悪いし」

行け行け、行って戻って来るなと言わんばかりの口調に、ヒカルは大きく溜息をつくと、やけくそのように言った。

「あー、もー、行くよ、行って来るよっ」

そうしてくるりとアキラに背中を向けて、ひとことだけぽそっと言う。

「―だよ」
「なんだ? まだ何か言い訳か?」

ヒカルが悪く無いと解っていても、恋人として面白く無いアキラは容赦が無い。

「しょーがねーだろって言ってんだよ」

さっきと同じことをヒカルは向こうを向いたまま繰り返す。

「その子、だって……おかっぱだったから」

は? とアキラが呆気にとられたその瞬間、くるりと振り返ってヒカルが言った。

「バーカ、バーカ、塔矢の馬鹿、ドS、根性曲がりのひねくれ者っ! そんなに意地悪ばっかりしてて、本当に他の子に気持ちが移っちゃっても知らねーからな!」

そうしてから「行って来ます」と拗ねたような声で言い、まっすぐにエレベーターに向かったので、アキラは、はっと我に返ると慌ててヒカルを追いかけたのだった。


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子どもの喧嘩です。


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