SS‐DIARY

2011年08月01日(月) (SS)翠明荘のネコ事件


その珍事が発生したのは、第62期王座決定戦の決勝戦だった。

五番勝負の第四局。

二勝、一敗の塔矢アキラ碁聖はこの局に勝てば二冠を得ることになり、進藤ヒカル王座はタイトルを維持するチャンスを得る。そんな大切な一局だった。

その緊張感漲る四局目は、群馬の老舗旅館翠明荘で行われ、朝からたくさんの関係者、記者が集まっていた。

朝10時に進藤王座の先番で始まった対局は、両者じっくりと構えた立ち上がりでじりじりと進み、中盤までそれぞれ何度か長考があった。

まだどちらが有利とは言えない複雑な盤面、昼を挟んで午後からは、進藤天元がはっきりと攻勢に転じ、盤面は激しい様相を為した。

咳払い一つ聞こえ無い、ぴりりと緊張した空気の中、いきなり場違いなものが現われた。

のっそりと縁側からネコが上がって来たのである。

誰もが対局中の二人に注目していたため気がつくのが遅れ、追い払おうとした時には既にネコは塔矢碁聖の膝の上に乗ってしまい、そのまま寛ぐ体勢になった。

しっ、しっと遠くから皆が追い払う真似をするものの、ネコは一向に気にした風も無く、塔矢碁聖の膝で丸くなってしまっている。

誰もがすぐに塔矢碁聖が追い払うだろうと考えたネコは、驚いたことにそのまま何もされることが無かった。

というのは塔矢碁聖は周囲で見ている観客以上に盤面に集中しており、膝にネコが乗ったことに全く気がついていなかったのだ。

そしてそれは差し向かいで打っている進藤王座も同じであったらしく、両者全くネコに構うこと無く打ち続けている。

「おい、あれどうするんだ」
「どうするって、どうにかしないと」

しかし人間が立って側に行くのは逆に両者の気を散らすことになりかねず、実際、思いあまった記者の一人が立ち上がり側に行きかけたら、いきなり塔矢碁聖に睨まれるはめになったのだった。

「まいったなあ」
「でも、あれじゃあ…」

手も足も出ないと考えあぐねている皆を更なる珍事が襲った。

縁側から再び別のネコがするりと入って来て、進藤王座の所に行き、その膝に乗ってしまったのだ。

進藤王座はもちろん気付いた様子も無く、ただひたすら盤面を見詰めている。

しかし見守る皆は全員血の気が引いている。

何しろ命をかけるとも言える真剣勝負、それも囲碁界で注目されている期待の新人同士で、且つ親友同士の二人の一局が、ネコを膝に乗せてという甚だ緊張を削ぐ展開になってしまったのである。

誰も何も出来ないまま、進藤王座、塔矢碁聖、両者ネコを乗せたまま接戦となり、やがて半目を賭ける勝負となった。

緊張に緊張を重ねる手の数々、時折挟まるネコの欠伸さえ無かったならば、手に汗握る光景であったことだろう。

そして夕方、日が傾き始めた頃、塔矢碁聖が碁笥に入れた手を引き戻して、しばらく沈黙した後ぽつりと「ありません」と言った。

「…悔しいけれど、キミの勝ちだ」

進藤王座の中押し勝ちであった。

進藤王座は、しばし放心したように盤面を見詰めてからいきなりほうっと大きな息を吐いて、それから「しんどかったあ」と天を仰いだ。

「おまえ、無茶キツイんだもん」

親友同士ならではのざっくばらんな感想に周囲の気配が少しほころぶ。

「キミこそ容赦無かったじゃないか」
「容赦もくそもおまえ相手に出来るかよ」

そしてふと気がついたように進藤王座が言った。

「そういえばずっと気になってたんだけど、どうしておまえ、膝にネコなんか乗せてんの」

言われた塔矢碁聖は自分の膝を見下ろして驚いたような顔をし、けれどすぐに進藤王座に向かって言った。

「ぼくの方こそずっと言いたかった。どうしてキミはネコを膝に乗せているんだ?」

言われて進藤王座も慌てて自分の膝を見下ろす。

「わ、本当だネコが居る」

全然気がつかなかったとの言葉に塔矢碁聖を含め、皆がどっと笑った。

『翠明荘のネコ事件』

後にこう呼ばれることになる出来事は隣家のネコが迷い込んで起こったことだった。

「申し訳ありません。今までこんな悪さをしたことは無かったのですが」

ネコの飼い主である隣家の主人は真っ青な顔で土下座したけれど、塔矢碁聖も進藤王座も笑って構わないと言ったのだった。

「別に何かされたわけではありませんし」
「そうそう、ネコ一匹膝に乗ってたからって、それで勝負がどうこうしたわけでも無いし」

そう言って、ネコを膝に乗せたまま検討を始めてしまった。

そしてせっかく気持ち良く眠っているのに起こすのは可哀想だからと、検討が終わった後も、三時間そのまま動くこと無く打ち続けた。


お人好しにも程があると、東京に帰って後、進藤王座、塔矢碁聖共に棋院のお偉方に散々怒られてしまったが、二人がネコを膝に乗せたまま打っている写真を一面に載せた『週間碁』は、前代未聞の売り上げ部数を記録し、囲碁ファンだけで無く、ネコ好きの層にも二人の名前を広く知らしめたのだった。


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