非道く暑い日だったと思う。
ぼくは先輩棋士達と近隣のイベントの応援に行き、その帰り新宿駅で解散した。
「それじゃまた」 「はい、お疲れ様でした」
にこやかに笑って別れ、即座に近くにあったカフェに入った。
コーヒー一杯だけ買って、カウンターの一番端の席に座る。
実は帰り道の途中から気分が悪くなってしまっていて、立っているのがやっとだったのだ。
(これからどうしよう)
まだ乗り換えて十数分はかかるのに、その時間電車に乗る自信が無い。
タクシーでと思っても、もう既に地上の乗り場に行く気力も無くなっていた。
(少し休めば…きっと)
きっと良くなるはずと思い、目を瞑ったまま必死で両肘をついて頭を支える。
買ったコーヒーは飲むことが出来ず、口をつけることも無いまま目の前で静かに冷えて行った。
ガラス越しに行き来する人の流れを見詰めながら、それでもぼくは具合がちっとも良くならないことに焦っていた。
「あの…お客様」
二時間過ぎた所でさすがに不審に思われたのか店員に声をかけられた。
もうこれ以上はここにはいられない、出て行かなければと思った時に、思いがけず声がした。
「あ、こいつおれの連れです」
長っ尻でごめんなさいと聞こえて来たのは進藤の声で、驚いたけれど顔を上げることすら出来なかった。
立ち去る店員の足を視界の端に見詰め、それから近付いて来るスニーカーを見る。
「そのまんま、突っ伏して寝てろよ」
ゆっくりと背中を押されて抵抗することも出来ずにカウンターに伏せる。
「おれが居るから心配無いし、気分良くなるまで眠ってろって」
そしてふわりと頭から上着をかけられた。
「こうしてれば寝てても分かんないだろ」
ぼくは彼と決して親しくは無くて、普段口をきくこともなくて、なのにどうしてこんな風にしてくれるのか解らない。
「余計なこと…」 「うん、余計なことをしてるだけだからそのまんまちょっと寝ろよ」
外から見た時、肌の色が死人みたいでびっくりしたと、そして自分は何やら携帯型のゲーム機を出して遊び始めている。
「おれ、今暇だから、何時間でも側に居るから」
大きなお世話だと言いたくて、でも声が出なかった。
先輩棋士達にはどうしても具合が悪いことを言い出せなかった。言って迷惑をかけることを思うとどうしても口に出せなかったのだ。
でもカフェで一人で耐えていて、身動きすることも出来なくて、良くなる気配が一向に無い。そのことはぼくを泣きたくなる程心細くさせていた。
だから心外ではあったものの、彼が隣に来てくれて、ついていてくれて非道くほっとした。
全身から一度に力が抜けるような、そんな気持ちになったのだった。
そして―。
上着の下で暗くなったことと、人が側に居てくれる安堵と、ひんやりとしたカウンターの感触にぼくはいつの間にか眠ってしまった。
不安定な体勢で、とても眠るような場所では無いのに、驚くほどすとんと眠りに落ちてしまったのだった。
「…ありがとう」
目を覚ましたのは閉店間際で、そろそろ終電も出ようかという時間だった。
そんなにも長い間彼はぼくの側についていてくれて、何度か商品を買い足しもしたようで、カウンターには幾つかカップが増えていた。
「別に」 「でも…助かった。ありがとう」
よく眠ったのが良かったのか、ぼくはすっかり体調が良くなっていて、店を出た所で彼に礼を言った。
こんなことで借りを作ったのは悔しいし不本意だったけれど、受けた恩は恩だったからだ。
「だからいいって別に」
それよかおまえ、睡眠不足か栄養不足かどっちかなんじゃねーのとぶっきらぼうに言われた。
「そんなことは…」 「あんだろ。無かったらこんな所でブッ倒れたりしないんじゃねーの」
体調管理も棋士の仕事だろうと、しっかりしろよと言われてムッとする。
「言われなくてもちゃんとする」 「だったらいいけど」
次はたまたま俺が通りがかるかどうか解らないんだから気をつけろと、そしてそのまま去って行った。
「キミに言われなくたって―」
ぼくはいつだってちゃんとやれる。
そう怒鳴りつけた時には彼はもう人混みの向こうで、翌日会った時にも特に何も言わなかった。
また元通り、視線も合わせなければ言葉を交わすことも無い。ぼく達の距離感はそのままだった。
まだお互いに中学生で、心通い合わせることも無かった頃。
でもあの時隣に居た彼の存在感と、安心感はいつまでもぼくの中に残り、そしてそれはいつの間にか恋愛感情に育って行くことになるのだった。
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乗り換えで皆がよく利用するわけで、この時も実はヒカル以外にアキラに気がついた人が何人か居ます。 でもアキラに声をかけたのはヒカルだけだった。そういうことです。
ヒカルはアキラに気がついて、でも具合が悪いのかどうなのか計りかねて、ずっと外から見ていたものと思われます。
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