もともと食に関しては意識の薄い方だったから、食べないでもあまり苦痛を感じなかった。
疲れていたり、忙しかったりしたら平気で何食か抜くこともしていたし、だから平気だろうと思っていたのに、気がついたら体を起こせなくなっていた。
「うわ、何やってんのおまえ」
這うようにして携帯に手を伸ばし、やっとの思いで進藤に電話をして、駆けつけてくれたはいいが、彼はぼくを見るなり『呆れた』を隠しもしない顔で言った。
「いつから食って無いんだよ、つか、なんで起きれなくなるまで食わないで居られんの?」
ぼくとは逆に進藤は空腹に弱い質で、移動中でもなんでもお腹が空くと子どものように『腹減った』と言って憚らない。
食べている姿も始終目撃して、よく太らないものだと思っていたけれど、あれはあれで必要なことだったんだなと改めて思った。
「えーと、いきなり固形物はマズイよな。じゃあスープかなんか行く?」 「ああ。うん。それくらいの方が有り難い」
何やらたっぷり買い込んで来たらしいスーパーの袋をがさがさと言わせて、進藤は缶のコーンスープを取り出した。何気無くラベルを見たら有名ホテルブランドの物だったので驚いた。
「インスタントの粉ので良かったのに」 「おまえに食わせんのにそんな適当なモン買えるかよ。ちゃんと栄養あるのにしないとだし」
そして更に驚いたことに生クリームも取り出した。
「少しだけ足すと美味いんだよ、これ。カロリーも増えるし丁度いいんじゃん?」
そしてぼんやりと横たわっているぼくを置いてキッチンに行くと手際よく鍋を出してスープを温め始めた。
一人暮らしを始めた当初から、進藤には合い鍵を渡してある。艶めいた意味では無く、家を出る時に父に釘を刺されたからだ。
誰でもいい、心から信頼出来る人に一人、鍵を渡しておきなさいと。もし何かあった時に一人暮らしでは助けを求めることも出来ないではないかと言われたのは、つまりはこういうことだったのだろう。
病気や何か、ぼくはたぶんさほど親しく無い人には頼るという意識が無い。
実家に居る時にはほぼ一人暮らし状態でも、荷物が届いたり、人が訪ねて来たりということが多く、常に人の出入りがあった。セキュリティ会社とも契約していたので、いきなり何日も扉の開閉が無くなればおかしいと察しても貰えたのだ。
でも一人暮らしのマンションではそれが無くなる。そこを心配されたらしい。
(さすがに、お父さんはぼくのことをよく解っている)
何かに気を取られたり、疲れたりすると途端に生活の方が手薄になる。だからこそ今こうして情けない姿を晒していたりするのだ。
「出来たけど、塔矢、起きられる?」
少しして進藤がマグカップにスープを入れて戻って来た。その方が飲みやすいだろうという配慮だったのだが、悲しいかなぼくは起き上がれなかった。
「ごめん、無理だ」 「そっか、やっぱ無理か」
じゃあしょーがねーなあと、進藤はぼくの傍らに座るとスプーンでそっとひとさじすくって、冷めるのを待ってからぼくの口にスープを運んでくれた。
「熱くない? 大丈夫?」 「…大丈夫。美味しい」
スープにはパセリも散っていて、じゃあこれも買って来たんだなと思ったら、たかがスープに随分散財させてしまったと申し訳無く思った。
他には一体何を買って来てくれたんだろう? ゆっくりと何度もスープを飲ませて貰いながらぼくはぼんやりと考えた。
「桃缶」 「え?」 「後、桃缶買って来た。病気じゃないけど、そんくらいの物の方がいいだろ」 「ああ…ありがとう」 「スポーツ飲料沢山と、それからおかゆ。卵もあるからだし巻き作ってやってもいいよ」 「へえ…豪勢だな」 「プリンとヨーグルトと、それからもうちょっと元気になったらもっとイイもんも作ってやるから」 「って…キミいつまでここに居るつもりだ?」 「ずっと。んー。取りあえずはおまえが元気になるまで。大体さぁ、一昨日棋院で会った時にはおまえ元気そうに動いてたじゃん?」
それでいきなりこうなるかよと言われてくすりと笑ってしまった。あの時も既に食事を抜いて何日か経っていたからだ。
「…まあ、ちょっと目の下に隈があったから気にはしてたんだけどさ」
こんなことになるって解っていたらちゃんと声をかけて物食わしたのにと言われて「嘘つき」と言ってしまった。
「一昨日会った時だって、キミ、ぼくの方をろくに見もしなかったじゃないか」 「それは仕方無いだろ。あんな派手に喧嘩した後でさぁ」
言いかけて進藤はスープを運ぶ手を止めた。
「あの…で、こんな時になんなんだけど、もう勘弁してくんない?」 「何が?」 「あん時はおれが悪かった。とにかくもう本当に悪かったって」
おまえが鬼のように怒っても仕方無かったし、その後も怒り続けていても仕方が無い。
「でも呼んでくれたってことは、ちょっとは怒りが収まったってことだろう」 「そうかな…そうかもね」 「だったらここで仲直りにさせてくんないかな。おれマジ今回びびったわ」
いくら喧嘩して腹立ったからって起きられなくなるまでメシ抜くか? どんなハンガーストライキだと言われて薄く笑って返すことしか出来なかった。
「そんなつもりは無かったよ。ただその気にならなくて食べなかっただけだから」 「だから余計に怖いんだって。あー、もーっ、これでもしおまえが死んでたりなんかしたら、おれ一生おまえのこと恨んだからな」
仲直りもさせてくんないで、当てつけがましくメシ抜いて死んだって、ずーっとずーっと恨みまくってやったからと言われてまた笑ってしまった。
「…あれはキミが悪かったんだよ」 「うん。だからそう言って謝ってる」 「じゃあ仲直りだね」 「おまえが許してくれるんなら」
運ばれるスープはとても美味しい。滑らかで濃くて、でも空腹だった胃にもとても優しい。
「命のスープだな」 「は? 何?」 「いや、そういうのがあるんだよ。で、ぼくにとってはキミが作ってくれたこれがそうだなって」
ふふと笑ったのに進藤はぎょっとしたような顔をして、でも再びスープをぼくに飲ましてくれた。
「こんなもんで良ければいくらでも作ってやるからとにかく早く元気になってくれ」 「解った。なんだか良い物も作って貰えるみたいだしね」
ひとさじ、ひとさじ、与えられるスープで体が満ちる。
ああこれは栄養と言うよりも愛情に飢えていたんだなと独りごちる。意外にもぼくは彼との衝突に弱いらしかった。今までもストレスで食べないことはあったのに、ここまで長く食べないでいたことは無かったから。
「まったく、おまえはなんかこう、色々薄いんだよ。もっと強烈に食いたいとか、したいとかそーゆーの思え!」 「…頭の隅には置くようにする」
あははと笑って口を開ける。雛鳥みたいだなと思いながら、でも恥ずかしいとも何も思わず、されるままずっとスープを飲み続けた。
温かくて優しくて、そしてたまらなく嬉しい。
マグカップ一つ分の熱いスープを飲み干した頃、ぼくの体は隅々まで愛情が行き届いて、ようやく手足がまともに動かせるようになった。
よく冷えた桃缶の桃を食べ終わる頃には半身起きられるようになり、スポーツ飲料を飲ませて貰ってからはソファに腰掛けられるようになった。まあそこまでで、それ以上はまだ無理だったのだが。
「どうする? もうちょっと何か行っとく?」
心配そうにぼくの顔をのぞき込む彼に、好きだなあと思いながら両手を伸ばしてその首に腕を回す。
「デザートを貰おうかな」 「おう、プリン? ヨーグルト? あ、でもおまえ桃缶食ったじゃん」 「もっといいものがあるだろう」
そんな物より甘くて美味しい。キスが欲しいなと言ったら進藤は一瞬真っ赤になって、でもすぐにぼくに欲しいものをくれたのだった。
※※※※※※※※※※※※ いやー…食べないと本当に体動かないですよね。体温下がるし。
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