SS‐DIARY

2011年05月16日(月) (SS)日常


床に落ちていたスーツの上着を拾い上げる。

どうしてせめて椅子にかけておくぐらいが出来ないのだろうと思いつつ、ベッドを見たら、いかにもここで力尽きましたという感じで進藤が眠っていた。

いびきはかかないが、それでも子どもみたいな寝息をたてて眠るのが常の彼が、今日はそれすら聞こえ無い程、静かに深く眠っている。

「…そんなに疲れたのか」

疲れたよねと思い、履いたままの靴下をそっと脱がしてやった。

ワイシャツは体の下に敷いたまま、スーツのズボンは履いたままで、これはもうクリーニングに出しても皺が綺麗に取れるかどうかわからない。

(でも仕方無い)

それが許せてしまうくらい、今日の彼はすごかった。

盤の前に座り、すっと背筋を伸ばした姿からは鬼神の如き気配が立ち上り、一手一手置く石の音も空気を割らんばかりに響いていた。

見ていてぞくぞくするほどの集中力と精神力。

そして剥き出しで隠す気の欠片も無い闘争心。

ああ、キミとやれて本当に良かった。今のこのキミの前に居るのが他の誰でも無いぼくで本当に良かったとそう思った。


横浜の、海が見える綺麗なホテルで行われた棋聖戦七番勝負の最終局。

削ぎ落とし、注ぎ込み、互いに相手ののど笛を狙って石を置き続けた二日間の後に、待っていたのはぼくの半目勝ちだった。


「ちっ…くしょう」

進藤が本当に悔しそうにそう言ったのだけは覚えている。

でも後は何もわからない。本当に何もわからなくなってしまった。

疲れて、でも心は充実して、夢うつつのままインタビューして、進藤と検討したような気がする。

挑戦者だった彼は、最後までぼくに「おめでとう」とは言わなかった。

「結局またおまえが棋聖かよ」

そう憎々しげに呟いただけで、祝福めいた言葉は何一つ口にしなかった。それを大人げないと言う人もいたけれど、もしこれが逆だったらぼくもきっと彼に祝福なんか告げない。

「それじゃおれは先に帰るから」
「ああ…うん」

ぼくは後援会の人達に簡単な祝賀会を開いてもらうことになっていたので進藤の言葉にただ頷く。

「お疲れ様。気をつけて」

進藤は何も答えず、くるりと背中を向けたその後ろでひらひらとぼくに手を振った。

それが約四時間前。

二人で住むマンションに戻ってみたら、進藤は案の定一人で先に眠っていた。

思ったほど部屋は荒れていなくて、たぶんベッドに直行したのだなと散らばった服などを拾いながらそう思った。

そして見つけたベッドの上、彼は深く眠りこけていて、ほっとしたような、気が抜けたようなそんな気持ちになった。

「せっかく早く抜けて来たのに」

そんなにぼくに負けて悔しかったのかと言ったら「当たり前だろ」と眠っていたはずの進藤がぼそっと言った。

「悔しくて悔しくてはらわた煮えくりかえりそう」

なのによくもぬけぬけとおれの前に顔出せたなと、ふてくされてはいるけれど、薄く開けた進藤の目はぼくを愛しいものとして見詰めている。

「とにかく、おれ傷心だから!」
「はいはい」
「このまま寝るし、何もしないし」
「解ったよ」
「でも、おまえはここにいて」

一晩中、ねちねち嫌味を言ってやるんだから、おまえはおれの側にいなくちゃダメと言われて思わず笑ってしまった。

「ぼくだって疲れてる」
「でも勝ったじゃん」
「そうだね、勝てたのがキミにだからとても嬉しい」

キミ以外の人に勝ってもね、ここまで嬉しくは無いんだよと言って側に座ったぼくの腰に彼が腕を回す。

「性格悪っ」
「うん、キミもね」

それでもぼく達は恋人同士だし棋士だし、誰よりも一番戦う機会の多い敵でもあるしと続けた言葉に彼が笑った。

「王座貰った」
「え?」
「棋聖取り損ねたから、王座はおれが貰うから」

それから名人も天元も碁聖も、おまえが持ってるのも持って無いのも残りは全部おれが貰うからと、子どもみたいに口を尖らせて言う。

「いいよ別に」

出来るならねと言ったら進藤は一瞬本当にムッとした顔をして、でもすぐに笑顔になった。

「よーし本気で取っちゃる」

その時になって泣いて後悔しても遅いんだからなと言われてぼくも笑った。

「泣かないよ」

キミが相手なら後悔もしない。

心からの愛しさに肌が震えるのを感じながら、ぼくは彼の頭をかき抱いて、「取りに来いよ」と返したのだった。


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出来上がって一緒に住んでる二人。こういう事は日常茶飯事です。大変だよね。


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