SS‐DIARY

2011年05月15日(日) (SS)霍乱


風邪のひき始めなのかもしれない。

昨日の夜から頭が痛く、体の節々が痛い上に寒気がする。歩くのも億劫で怠くて怠くてたまらずに、出来るものなら布団の中で眠っていたいと思ってしまった。

(でも、だからってそう易々と休めるか)

ぼくにとって打つことは人生そのものであり、そのまま、生きる糧を得るための仕事でもある。

アマチュアならともかく(それでも許せなかったと思うけれど)仮にもプロが、風邪で手合いを放棄出来るものかと、くらくらする頭を押さえながら市ヶ谷に向かったら、電車を下りた所で進藤に出会った。

「あ、塔矢じゃん、おはよう」

こういうタイミングで会うのは珍しいよなと、にっこり笑われた瞬間、一秒前まであまりの苦痛にしかめっ面をしていたぼくは、ぱあっと笑顔になっていた。

「おはよう。そうだね、キミはいつもギリギリに来るから」
「そんなことねーよ、おまえがいつも早すぎるんだよ」

拗ねたように口を尖らせる様を見ながら思わず微笑む。そして微笑めたことに驚いた。

(なんだ風邪だと思ったけれど、そうじゃ無かったのかな)

進藤に会った途端気持ちの悪さが吹き飛んで、代わりに弾むような喜びが体一杯に沸き上がった。

もう頭も痛く無い。体のどこも痛く無い。引きずるような気怠さも無くなって、ぼくは非道く爽快だった。

「おまえ、今日は誰と打つの」
「川上七段。ほら、この前芹澤先生の研究会でキミが打った人だよ」
「ああ、あの人。そうかー、結構粘り強い碁を打つ人だよな」

頑張れよと言われて頑張るよと気負わずに返す。

「キミは誰だっけ?」
「おれ? 越智。へへへ、あいつと打つの久しぶりだからすっごく楽しみ」
「そうか。じゃあ終わったら並べて見せてくれる?」
「いいぜ、おれ明日何も無いし、なんだったらうちに来て泊まりがけで検討する?」
「ぼくも明日は何も無いし、もしキミがそれでいいなら」
「じゃ、約束な」

にこにこと笑いながらぼくは彼と控え室で別れた。

そして順調に打ち進め、昼は彼と彼の友人達と近くのファミレスで食べて、そして午後も快調に打った。

「…ありません」

中押し勝ちで勝った時、ふうと満足の息が漏れ、彼はまだ少し時間がかかりそうだったので、今の一局をゆっくりと検討した。

そして――。



「悪い、待たせたな」

元気いっぱい駈け寄って来る進藤と待ち合わせて一緒に彼の家に行って、そして楽しく検討をするはずだったのだけれど…。

そこから先の意識が無い。

進藤が言うにはドアをくぐって靴を脱いだ所で、ぼくはばたりと倒れ伏したらしい。


「おまえバカ?」

気がついて進藤に最初に言われた言葉がこれだった。

「どこの世界に三十九度ぶっちぎりで熱があるのに、へらへらと検討しにくるバカがいるんだよ」
「そんな…熱があるなんて知らなかったし」
「計らなくても体調激悪だっただろう! 頭痛いとか、くらくらするとか」

そもそもこんなに熱があったら、普通に立って歩くだけでもかなりしんどいはずだぜと言われてしばし考えた。

「そういえば来るまでは、ずっとそんな感じだった」
「だろ? なのになんで手合い終わってすぐに帰らなかったんだよ」
「だってあの時は気分が良かったし…」

何故だろう、朝進藤に会ってからぼくは苦痛を忘れていた。それどころか彼の笑顔を見て、最高に良い気分になっていたのだ。

「あ」

ぼくの呟きに進藤が「なに?」と顔を寄せた。

「きっとぼくは風邪じゃなく、進藤ヒカル欠乏症だったんだよ。だからキミに会えて嬉しくて元気になって―」
「阿呆」

即座に言われた。

「裏の小児科の先生に頼み込んで往診に来て貰って言われたもん。風邪! おまえ、ただの風邪」

それも結構こじらせちゃってる困った風邪っぴきなんだよと言われて「へー」と思った。

「とにかくこのまま明日も安静。先生明日も来てくれるって言ったから、とにかくおまえは眠っとけ!」
「でも、折角キミと居るのに何も出来ないなんて」
「いーから、とにかく何もしなくていーから!」

このおれが心をこめて看病してやるから、おまえは明後日までに体治しとけと言われて首を傾げた。

「明後日何かあったっけ?」
「おれもおまえも手合いがあるからだよっ!」
「ああ―」

そういえばそうだったと呟くぼくに彼は額を手で覆った。

「もう、やっぱおまえ変。有り得ないことべらべら喋ってるし…とにかく寝ろ。頼むから寝てくれ」
「…了解」
「後で何か食わしてやるから、今はとにかく少しでも熱が下がるように眠って体休めてくれって」
「…わかった」

そしてとろりと目を瞑る間際、進藤がそっとぼくの額に手を当てた。

「…あっついなあ。どうしてこんなに熱いのにわかんねーんだよ、おまえ」
「だって…」

本当に気分の悪さは消えていたから。

進藤に会い、笑顔を見た時に無くなった。つまり彼に会った嬉しさが、体調の悪さを凌駕したということなんだろう。

そう気がついてくすっと笑ったぼくを進藤がじろりと睨め付けた。

「何がおかしーんだよ、何が」
「ぼくはキミのことがものすごく好きなんだなあと思って」

しみじみと心からそう言ったのに進藤は真っ赤に顔を染めると大声で怒鳴った。

「だから! バカ言って無いで寝ろってば!」

病人に向かって言うには随分だとは思ったけれど、ぼくは素直に布団の中で目を閉じた。顔の側に置いた手をそっと彼の手が握る。

その瞬間、熱っぽく熱かった体が楽になった。少しだけ荒くなっていた呼吸も楽になる。

「ありがとう」
「ん?」

やっぱりキミはぼくにとっての特効薬だと言いたくて、でも言ったらきっと彼はまた真っ赤になって怒鳴るので、ぼくは賢く何も言わず、市販薬の何十倍も心と体に覿面な進藤の温かい手にそっと頬を寄せたのだった。

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平熱になった後、若先生悶死。


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