SS‐DIARY

2011年05月14日(土) (SS)直情短気


棋士もまあ人間なので、時にムカつくこともあればガキみたいな殴り合いの喧嘩をしたりもする。

そもそも才能でぶつかりあっているのだから、手が出ないのがおかしなくらいで、みんな自制心が強いんだなあと、その方面にあまり強固な鍵のかかっていないおれは感心してしまったりする。

その日、打ち掛けが終わって戻って来たら、喧嘩だと皆が走って行くのに出くわした。

「何? 誰と誰が喧嘩してんの?」

今日は何があったっけなあとぼんやり考えていると、「塔矢が」と思いがけない声が聞こえた。

「塔矢が対局相手の六段と殴り合いの喧嘩をしている」

嘘だろ? マジかよと急いでかけつけて見ると、控え室で確かに塔矢がとっくみあいで喧嘩をしていた。

碁打ちになってほぼ十年、その間に自分を含め色々な喧嘩を見て来たけれど、塔矢アキラ様の野蛮な喧嘩を見るのは初めてで、しばし呆然と眺めてしまった。

「ちょっと、進藤! あんた塔矢くんと仲いいんでしょ」

止めなさいよと奈瀬にどつかれて改めて見る。

塔矢は上に乗られ思い切り頬を殴られていた。でもその瞬間に相手の鳩尾に思い切り蹴りも入れている。

「…結構やれんじゃん、あいつ」

決して強くは無いし、喧嘩慣れもしていないけれど、たぶん人が思っていたよりもずっとまともに喧嘩出来ている。さすがだなあと変な所で感心していると今度は伊角さんに揺さぶられた。

「止めた方がいいんじゃないのか、そろそろ事務の人達が来る頃だと思うし」
「あー…そうだな」

いくらまともにやれているとは言っても、相手の方が体力的に勝っていて、このままだと塔矢は結構痛い目を見てしまいそうだった。

それはやっぱり嫌なので、伊角さんと手分けして喧嘩を押さえる。

「ちょっ…離せ、進藤」

相手も相手で伊角さんに噛みついている。

「離せ、伊角。どうしてもこいつに思い知らせてやらなくちゃ気が済まないんだ」
「それはこっちのセリフだ、あれだけ無礼なことを言っておいてよくも」

負けずに怒鳴り返す塔矢をどうどうと宥めて引き離す。

「とにかく落ち着けって。もうすぐ打ち掛け終わりだし、このままじゃ手合い中止になっちゃうぞ」

喧嘩両成敗で両方負け、そんなの嫌だろうおまえと言ったら、いつもは絶対に黙るはずの塔矢が即座に言った。

「別に構わないさ、彼に謝罪させられるんなら」
「って、そんな熱くなるなよ。珍しいな。あいつ一体何言ったん?」
「それは―」
「進藤なんて大したこと無いって言ってたみたいよ」

奈瀬がぼそっと囁いた。

「は? おれ?」
「私も最初から聞いていたわけじゃないけど、進藤なんか全然大したこと無い、あんなヤツ、運とコネだけでここまで来てるって怒鳴り散らしてたもん、あいつ」

そうそうと他のギャラリーも口を出して来て、纏めてみると、あの六段は塔矢に向かって最初は「思っていたほどでもない」と当てこすりのように言ってきたらしい。

まあ盤外戦の軽いのみたいなものだから塔矢は完全無視していたのだけれど、それが気に入らなかったらしくしつこく絡まれてしまったようなのだった。

『噂の塔矢アキラがどれほどのものかと思ったら、結構平凡な手を打ってくるんですね』
『これでリーグ入り常連なんて詐欺みたいなもんだ』

親の七光りだの、元名人の子は得だとか散々言われてスルーして、そうしたら今度は話の方向がおれに向いてしまったのだという

『そういえば、あなたのライバルだと言う進藤ヒカル』

あれもそんなに大したことは無いと、その瞬間に顔色が変わったとギャラリーの証言に塔矢がムッとした顔になった。

『下手くそだし、考え無しだし、あれでよく勝てている』

ついこの間リーグ入りをかけて戦った、その勝ちも本当は譲られたものではないのかと、言われた瞬間に塔矢は相手を殴っていたのだと言う。

『よくもそんなことが言えたものだ。進藤の方があなたよりずっと尊い碁を打っているのに』

そしてその後は手も足も出るとっくみあいの喧嘩になって今に至るというわけだ。

「いや…でも、らしくないじゃんおまえ」

そんなことで怒らなくてもと言った瞬間おれは思い切り怒鳴られた。

「そんなこと? キミは自分を貶められてそんなことなんて言えるのか」

信じられない、許せない。少なくともぼくは絶対に許さないと憤った言葉に嬉しくなった。

「なんで? だっておれ、そんなに慎重な碁でも無いしさ」
「それでも、キミの碁は素晴らしいのに」

この間の一局も本当に一秒も目が離せなくて、相手が自分では無いことに歯噛みするほどだったというのに、そんな至高の一局を見て、くだらない感想しか抱けない、そのことに心底腹が立つのだと言った。

「大体、大したこと無いってなんだ。あの人よりキミの方がずっと強いよ」

それを汚すようなことを言われて黙っていられるかと、囲碁界の王子様は鼻息が荒い。

「まあ、それでもいいよ、もう」
「信じられない腰抜けだな、キミは!」
「いや、そうじゃなくて、もう午後の手合い始まるし」

もう散々手で殴ったんだから、今度は盤の上で叩きのめしてやればいいじゃんと、言ったおれの言葉に塔矢の瞳が少し鎮まった。

「盤で?」
「そ。そっちのがおまえ得意だろう。二度と刃向かって来ないくらい徹底的にやっちゃえよ」
「…わかった」

それでもまだ不満そうな色を残して塔矢はすうと息を吸った。

「打てるな? 普通に」
「当たり前だろう。キミじゃあるまいし」

打つよ、碁でこの落とし前はつけてやるよとまだ通常モードとはほど遠い神経らしい。

「伊角さん、そっち大丈夫?」

離れていた相手側に声をかけると「ああ、大丈夫だ」と返事がかえった。

「落ち着いたから平気だろう」
「こっちも平気」

にっこり笑って掴んでいた塔矢の腕を離す。

「ほら、行って来いよ」
「言われるまでも無い」
「勝てよ、きっちり」
「だからキミに言われるまでも無いって言っている」

そして塔矢は肩を怒らせたまま対局室に歩いて行った。少し前、先に行った相手の背中を睨み付けたままで。

「なあ、あれホントに大丈夫なの?」

二人が去ってしまってから、奈瀬が呆れたように声をかけて来た。

「まだ二人ともやる気満々みたいだけど」
「碁で晴らすだろ。二人とも碁打ちなんだし」

それにもし、万一それで収まらなかったら今度はおれが加勢するさと言ったら、あーあとお手上げのような声をあげられた。

「塔矢くん変わったわよね。絶対にあんたの影響だわ」
「そうか? 元からあいつあんなもんだぜ」
「そんなわけ無いでしょ、王子様が」

確かにあいつは王子様で、静かで真面目で礼儀正しい。

(でもおれにはずっとあんなだったよな)

最初からずっとあんなふうに直情で激しかったと思い返しながら、おれは自分のことで塔矢が怒ってくれたことを今更ながらにしみじみと、嬉しく幸せに思ったのだった。



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若先生は直情短気。


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