SS‐DIARY

2011年05月11日(水) (SS)百万倍もいい匂い


夜遅く帰宅してエレベーターの昇降ボタンを押したら、降りて来たそれには人が乗っていた。

同じマンションの住人らしい若い女性がすれ違うように出て行って、代わりに乗り込んだ時、あっと思った。

(いい匂いがする)

女の子が居ると、大抵は化粧品や香水のいい匂いがするものだけれど、これは後者であるらしい。

爽やかできりりとした香りは結構好みのものだった。

「そーいや、そんな感じの子だったな」

ちらりとしか見ていないが、この香水が似合いそうなさっぱりとしたタイプだった。

「美人だったし。モテるんだろうなー」

そう呟いて部屋に戻る。

鍵を開けてドアを開けた瞬間、ふわりと漂う香りがあって、さっきとは桁違いの「あっ」が漏れる。

「塔矢、来てんの?」

少し前、一人暮らしを始めたおれは真っ先に塔矢に鍵を渡した。

他の誰にも渡して無い。おまえだけだからいつでも好きな時に来てと言ったものの、塔矢はまだ来たことが無かったのだ。

それが今日は珍しく来てくれたらしい。

「おかえり」

奥からやって来た塔矢はおれを見るとにっこりと笑った。

「何か食べて来た? もしまだだったらシチューがあるけど」
「って、え? 作ってくれたの?」
「お腹が空いたから。もしキミがまだ当分帰って来ないようなら先に食べるつもりでいた」
「食べる。もうすぐに食べたい。お腹ぺこぺこ」

おれの言いように塔矢は笑って、それじゃ着替えておいでと子どもに母親が言うような優しい口調で言った。

「キミが来たなら、サラダも作るからゆっくりシャワーでも浴びてくるといい」
「…うん」

おれはお言葉に甘えてゆっくりシャワーを使って、それから着替えて塔矢の元へ戻った。

「食べる?」
「うん」

言いながらぎゅっと抱きしめたら「そっちじゃない」と軽くこづかれた。

「解ってるって。でもちょっと抱きしめさせて」

だってなんだかすごく、すごーく嬉しいからと言ったら塔矢は笑った。

「これくらいで大喜びだな」
「喜ぶよ、そりゃあ」

二泊三日の伊豆行きは、十段戦の三局目でこれを取ったら勝てたのに、つまらないミスで負けてしまった。

後二局あるから挽回出来ないわけじゃないけど凹んだのは確かで、そんなおれを心配して、たぶん塔矢は来たんだろう。

でもそんなことはおくびにも出さない。

「シチューが焦げる。火にかけたままなんだ」

照れからから少し邪険におれを払うのをまだもうちょっとと抱き寄せる。

「んー、いい匂い」

首筋に顔を埋めてくんくん嗅ぐと「犬め」と小さく笑われた。

「こんな躾がなってない犬にした覚えは無いんだけれど」
「躾られてるって。だから押し倒して無いんじゃん」

でも良い匂い。ドアを開けた途端すぐに解った。

たぶん本当は煮込んでいるシチューの匂いの方が強く感じられたはずだった。でもおれの鼻はそこに混じったこいつの肌の香りをちゃんとしっかり感じていた。

「おまえなんかつけてる?」
「いや?」
「そーだよな。でもいつも凄く良い匂い。おれ、おまえの匂い大好き」

ふわりと甘くて、でも甘過ぎなくてきりっとしてて、そういえばさっきエレベーターで嗅いだ、あの女の子の香水の匂いとちょっと似てる。

(でも塔矢のが百万倍いい匂い)

いい匂いすぎてあまり嗅いでいると変な方向に気持ちが向くのが難点だが、今この瞬間はおれに溢れるような幸せだけを感じさせてくれた。

「ほら、いい加減にしないとシチューが台無しになるから」

ぐいと押されて仕方無く退く。

でもまだ香りはおれの体についていた。

優しく甘い塔矢の匂い。

「うん、やっぱこれに勝るものは無いよな」

思わずぽつりと呟いたら、なに?と振り返り尋ねられたけれど、おれは黙って手を振って、なんでもないと答えたのだった。

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珍しくヒカルを甘やかし放題のアキラです。これで相手が自分だったらきっと会いもしないんでしょうに。


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