SS‐DIARY

2011年05月02日(月) (SS)房総半島の暴走


韓国語を習ったのは、そもそも北斗杯のせいだった。

北斗杯が無くてもいつか習ったとは思うのだけど、せっかくの棋戦、通訳を介してでは無く直接会話して検討したいと思ったからだ。

そしてそれはある程度叶い、じっくり話し合うことは出来なくても、対局の後、もどかしい思いをすることなく直前に打った一局について話をすることが出来た。

長い会話になるとまだ覚束ないが、それでもレセプションでも挨拶程度の会話は出来て、まあ習った甲斐はあったかなと自分では思っていた。


それから数年、北斗杯は主催企業のイベント自粛で開催されなくなってしまったが、対局した海外の棋士達とぼく達の間では未だにやり取りがされていた。

ほとんどはネットを通じての棋譜や情報のやり取りだったけれど、進藤は全く韓国語が出来ないにも関わらず、洪秀英が日本語が出来るためにあまり苦労無くそれ以外の話もしているらしい。

何を話しているのかはしらないけれど、たまに電話で直接会話までしているのには驚かされる。

『や、だって通じないことがあってもニュアンスで解るじゃん』

そう言って、彼は時にあんなに毛嫌いしていた高永夏とも話をしているらしいのだった。

『んー、確かにあいつ嫌いだけど、話してみたらそんなでも無かったっていうか』

それよりも間違い無く強いヤツと情報交換出来る方が重要だからと進藤の答えは潔い。




「…だからって、わざわざたまの休みに会いに行かなくてもいいのに」

ぼくが朝からずっと不機嫌だったのは、進藤がこの連休を利用して韓国に行ってしまったからだった。

連休とはいえ、棋院では催しもあり棋士がほいほいと海外に行っていいわけは無かったのだが、進藤は上手く時間をやりくりして、一泊二日という強行スケジュールで韓国行きを決めてしまったのだった。

「ぼくだって行きたかったのに」

『でもおまえ、この日程だと無理だろう?』

前の日も次の日もびっちり予定が入っているんだから無理だよと、彼の言うことは正しいのだが腹が立つ。

どうしてぼくを置いてあっさりと韓国になんか行けるのか、そう言いたくてもプライドで言えず、ぼくは苛々と彼抜きの時間を過ごしていた。

それでもたかが一泊、我慢していればすぐ過ぎると思って目の前の仕事に集中していたのだけれど、帰って来る予定の日、いきなり彼からぼくに電話がかかって来たのだった。

『塔矢?』

悪い、ゴメンと矢継ぎ早に謝るので何かと思ったら、どうも乗る予定だった飛行機がエンジントラブルで欠航になってしまったらしい。

『すぐ他の便を探したんだけど、何しろ今って連休じゃん?』

どうにか席を見つけてチケットの手配をしたものの、一日帰国が遅れることになってしまったと。

『だからゴメン、棋院へもこの後電話するけどその前におまえに言っておきたくて』
「いいよ、解ったから」

焦らずに帰っておいでと腹の中では大不満ながら、それでもぼくは感情を殺してそう言った。

(韓国にもう一泊?)

また一日ぼくを放っておくつもりかと、理不尽であるとは解っていても彼と彼と共に居るはずの韓国棋院の棋士達に怒りを覚えずにはいられない。

『ほんとごめんな。帰ったら埋め合わせするから』
「いいって、別にぼくは大丈夫だから。それより電話代がもったいないからキミは早く棋院に連絡するといいよ」
『わかったよ、ちぇーっ、もっと寂しがってくれればいいのに』

口を尖らした風の彼の電話が切れて、ほうっと溜息をついた時だった。まだ持ったままの電話がいきなり鳴った。

「……もしもし、進藤?」

あまりに間が無かったので、何か言い忘れがあって彼がかけて来たのかと思ったのだ。

ところが受話器から流れて来たのは彼のものでは無い声で、しかもそれは韓国語だった。

塔矢アキラかと、ぶっきらぼうな物言いにむっとして、でも韓国語だから決してそうなわけでは無いんだろうなと思い直した。

「そうですけど、あなたは?」

記憶力を総動員してなんとか韓国語で返事をすると、おれが誰かは関係無い。ただひとこと言っておきたくてとまたしてもぶっきらぼうに返された。

「…何を?」

シンドウヒカルはこちらにとても馴染んでいる。なかなかに強い棋士だし、折角だからこのままこちらにもう少しいるように勧めてみるつもりだと言われた。

「は?」

日本にいるのは勿体ない。韓国棋院で貰うことにすると言われた声に別の声が重なった。

『永夏、誰と電話してるの?』

それは間違い無く洪秀英の声で、ではこの相手は高永夏だと解った。

いいな、とにかく貰ったぞと、念を押して電話はぷつりと切れてしまった。

電話は切れたが切れたのはぼくも同じだった。

進藤を貰う? 韓国棋院に? カッと頭に血が上った所までは覚えているのだけれど、その後はあまりに怒りすぎていて実はよく覚えていない。

けれどぼくは財力と父のコネをフル活用して、この時期空席など無いはずの飛行機の便に席を作ってねじ込むとそのまま韓国へ向かったのだった。

普段のぼくなら絶対にやらない、したいとも思わない強行手段。

それでもそれをしてしまったのは、進藤を奪われてたまるかという、ただその一念に尽きると思う。


空港に着いて、タクシーに乗って、脇目もふらずに韓国棋院に着いて、名乗って中に入ってぼくがまずしたことは彼の姿を探すこと。

「あれ? 塔矢??」

なんでこんな所に居るのと、奥で打っていた彼を見つけた時、ぼくは彼よりも彼の隣に居る人物の方を凝視していた。

忘れもしない、すらりと背の高い韓国の棋士。

高永夏の前につかつかと歩みよると、ぼくは息を吸い込んで大声で怒鳴った。

「返せ!」

たぶん韓国棋院中に轟いたであろうぼくの日本語。

そう、ぼくはあんなに練習したはずの韓国語では無く、日本語で怒鳴っていたのだった。

一拍おいてしんとなって、きょとんとしたように全員がぼくを見て…それからのことはもう思い出したくも無い。

でも一つだけ、進藤がこれ以上無い程嬉しそうな顔をしてぼくに抱きついて来たことだけは唯一の慰めとして記しておくことにする。



※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

行くのは行けたものの、帰りの便まで手配出来るはずも無く、結局二人揃って連休明けに帰って来ます。

子ども囲碁大会欠席。かなり非道く怒られます。
ヒカルはともかくアキラは特に念入りに。

己の直情さにしばらく立ち直れません。あ、もちろん永夏が電話で言ったことは嘘でただの意地悪です。


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