呆れる程の早さで、黒雲が空を覆って行った。
さっきまではそよとも吹いていなかった風が足元を掬うように強く吹く。
その風に向かって大股で走っていたヒカルは、足元のアスファルトにぽつりと黒く点が出来たのを見て舌打ちした。
「やべぇ」
ぽつ、ぽつぽつぽつぽつと、見る間に足元の点が増えて行き、やがてザッと音をたてて雨が降り始めた。
「あー、もうまったく、後五分くらい待てよな」
誰に言うともなく文句を言って、ヒカルは辺りを見回した。
少し先に閉店したパン屋の店舗を見つけ、軒下に走り込む。
ザーッと追いかけるように雨脚が更に強くなった。
全身びしょ濡れ、髪からも服からも、鞄からも冷たい滴が滴り落ちた。
「まったく…塔矢アキラ様の怒りは覿面過ぎて腹立つな」
今朝、出がけの言い争いを思い出してヒカルは溜息をつきつつ苦笑した。
『降水確率は10パーセントだけど、夕立があるかもしれないって天気予報で言っていた』
だから絶対傘を持って行けと言うのを嵩張ることを嫌ったヒカルは断ったのだ。
『いいよ別に、本当に降るとは限らないし、もし降ったとしても、ちょっとぐらいなら濡れたって平気だし、おれ』
『そんなこと言って、この前もびしょ濡れで帰って来たじゃないか』
あれからしばらく長引く風邪で苦しんだのをもう忘れてしまったのかと、アキラの目は静かに、けれど怒っている。
『荷物が増えるのが面倒とか、そんなつまらないことで体調を崩すなんて愚の骨頂だ』
『そこまで言う?』
とにかくもう温かいし、平気だし持って行かないったら持って行かないと最後は怒鳴り合いのようになって、ヒカルは家を飛び出したのだった。
そして。
出先の用事が終わる午後3時まで空は気持ち良く晴れ渡っていた。
(ほら、天気予報なんて当てにならないじゃん)
そんなことを思いつつ、本屋とCDショップに寄り道して店を出たら、空はいきなり怪しい色に変わっていた。
「…マジかよ」
一目で雷雲とわかる雲が空の真ん中辺まで広がっていて、それは更に風に乗って広がりつつあった。
なので、後はもうどこにも寄り道せずにヒカルは大慌てで家に帰ることにしたのである。
けれど、広がる雲の方がヒカルの足よりずっと早かった。
「これで帰ったら、それみたことかって言われるんだろうなあ」
ヒカルが自分の言うことを聞き流して失敗した時のアキラは容赦が無い。
普段はヒカルに甘いことが多いけれど、身を案じて忠告したことを無視されるのはさすがに腹が立つのだろう。冷ややかを通り越して、永久凍土のような冷たさで言葉をぶつけてくることが多かった。
「キミは学習能力というものが無いのか、また今度同じようなことをしたらその背中に傘を紐で括りつけるぞ!…ぐらい言うかな」
睨み付けるその眼差しまで容易に思い浮かべることが出来てしまって、ヒカルは軽く嘆息した。
「あー、もう雨は上がらないし、家に帰れば塔矢が怒って待ってるし、まったくろくなことねえ」
そのろくなことが無いのが自分のせいなのは、取りあえず今は棚上げである。
「塔矢どっかに出かけててくんないかな」
そうして出来れば自分が帰って、濡れた服を着替えるまでは帰って来ないで欲しいと、そんなことをつらつらと考えていた時だった。
ヒカルは我が目を疑った。
どしゃ降りの中、すぐ目の前をアキラが傘も差さずに走って行ったからだ。
「――え?」
アキラは片手に傘を握りしめ、けれど何故かそれを差さずに走っているのである。
「塔矢っ」
大声で呼ぶと、随分先に行ってから、くるりとアキラが振り返った。
「塔矢、おれだってば!」
ここ! ここ! と手を振るとやっと気がついたらしく、今度は同じ勢いで戻って来た。
「良かった―キミ、ちゃんと雨宿り出来ていたんだね」
軒下に入るなり、アキラはヒカルを見てほっとしたような顔で笑った。
「曇ってから降るまでが急だったから、どこかで立ち往生しているんじゃないかって」
はあはあと息を乱す、アキラの方が余程ヒカルより濡れている。
「…そんなことより、おまえ何で傘持っているのに差さないんだよ」
大体こんな雨の中、大急ぎでどこに行くつもりだったのだと尋ねたら、アキラは一瞬きょとんとした顔になった。
「どこって…だから、キミを迎えに行く所だったんだけど」
ここで会えて良かったと言う。
「って、おまえ、今朝喧嘩したのもう忘れた? おれ、今朝おまえが傘持って行けって言うのをぶっちぎって出て来たんだぞ」
自業自得、いい気味だとは思わなかったのかよと言ったら、アキラはヒカルの顔をじっと見詰め、それから苦笑したように笑った。
「…思うわけ無い。それはバカだなとは思ったけれど、キミが濡れていい気味だなんて、そんなこと思うわけが無い」
「思うんだよ、普通は」
「じゃあぼくはきっと普通じゃないんだな。キミがまた風邪をひいたらって、そのことばかり考えていた」
笑うアキラの顔に邪気は無い。全くの素直な言葉だったのでヒカルは顔が赤くなるのを押さえられなかった。
「おまえ…バカなんじゃない?」
「そうかもね。キミのことになるとバカになってしまうんだ」
ぼくはぼく自身よりもキミの方が大事だからと、しれっと言われた強烈な殺し文句にヒカルは顔の赤さが首筋まで広がるのを感じた。
「…だからって、それで自分が濡れてちゃ仕方無いじゃん」
ぽたぽたと滴を垂らす前髪の下、ヒカルを見詰めるアキラの瞳はいつもより大きく無邪気に見えた。
「慌てていたんだ。早く届けなくちゃって。自分の傘のことまでは考え無かったな」
にっこりと笑って言われてもうダメだと思った。
「…鞭と飴」
「え?」
「なんでも無い。おまえには敵わないって、ただそんだけ!」
ヒカルは言って、アキラをぎゅっと抱きしめた。
いきなりの行為にアキラは驚いたような顔をしたけれど、すぐに嬉しそうに自分もヒカルの体を抱き返した。
「…濡れてる」
「おまえだってびしょ濡れじゃん」
「だってキミが傘を持って行かなかったから―」
あー、わかったわかった、わかりましたとヒカルは言って更にぎゅっとアキラの体を強く抱きしめた。
空からはまだ激しい雨が落ち続け、時折低い雷鳴が響く。これは当分止みそうに無い。
「これからはおれ、おまえの言う通りにするから」
「何だ、いきなり?」
「おまえが朝持って行けって言ったら、傘でも槍でもなんでも絶対持って出る」
もう二度と聞き流したりなんかしないからと言うヒカルの言葉にアキラは笑った。
「ぜひ、そうしてくれ」
そうしてくれればぼくの心も平安だと言われてヒカルは苦笑した。
なんだな、結局の所もしかして、おれはこいつにこうやって調教されて行くのかもしれない。
(でもいいや)
シアワセだからそれでもいい。
面倒臭いとかそういうことより、アキラがびしょ濡れにならないことの方が大切だ。
だってアキラは本当にヒカルのためなら平気でバカになれそうだったから。
「帰ろうか?」
「もう少し…」
もう少しこのままで居て欲しいと、珍しくアキラが可愛いことを言うので、ヒカルは思わず嬉しくなって、アキラの頬にキスをした。
雨宿りしている濡れ鼠。
長々と抱擁を楽しんだ後、ヒカルはアキラと二人して、一つ傘の中、肩を並べて入りながら仲睦まじく帰ったのだった。
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いつでもどこでも、いちゃいちゃしていればいいよと思います。
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