それは近年の囲碁界に於いて、最早伝説になっている。
ある若手同士の交流会でのこと、堅物で有名な塔矢アキラ七段の所にしたたかに酔っぱらった一人の女流棋士がやって来た。
場所の決まっていない立食タイプの会食では無く、一人一人場所が決まった宴会形式だったので、塔矢アキラの前に座るということは、間違いなく塔矢アキラに話しに行ったということになる。
同い年の進藤ヒカル六段は、誰彼壁を作らずにざっくばらんに話すタイプだったので、その時も少し離れた場所でかなりな人数に囲まれていた。
その女性はそこからいきなり離れると塔矢アキラの前に座ったのである。
「あのー」
少々ろれつの回らない口調で、一人黙々と飲んでいた塔矢アキラに彼女が話しかける。
「あのー、私、前々から塔矢アキラ七段に言いたいことがあったんですけどぉ」
普段、彼にこんな話しかけ方をする者は無く、彼女もまた酔っていなければ絶対にしなかっただろうと思われる。
「なんですか?」
一人でゆっくり楽しんでいたのに邪魔をされたと言わんばかりの顔で塔矢アキラが答える。
「何かぼくに用でも?」 「進藤六段のことなんですけど、ちょっと塔矢七段は独占し過ぎなんじゃないんですか?」
実は彼女は少し前から進藤ヒカルにかなり熱を上げており、何度も告白し、誘いをかけては断られるを繰り返していた。
塔矢アキラは知らなかったが、実はこのちょっと前にも人前でやんわりと、 でもきっぱり食事の誘いを断られたばかりだったのである。
「いくらお誘いしても、進藤六段、いつも塔矢七段とのお約束があるからって断るんですよ。そうでなくても普段もいつも一緒だし…男同士なんですから、そんなホモみたいにつるんでないで、少しは私達にも進藤六段を貸してくれませんか?」
酔った口調ながら彼女の物言いはかなり真剣な物が入っており、塔矢アキラはむっとしたように眉を寄せた。
「貸すも貸さないも、それは彼が決めることでしょう」 「そんなこと無いです。私ずっと見てましたけど、どちらかというと塔矢七段が進藤六段を離さないように見える。だからこうしてお願いしているんですってば」
進藤六段は女性にかなり人気がある。彼女以外にも誘いたいと思っている女性がたくさん居るのに塔矢アキラのせいでそれが出来ないでいるのだと言うのだ。
「親友同士、仲が良いのもいいですけれど、それだといつまでたってもどちらもご結婚出来ないんじゃないですかぁ?」 「くだらない」
呟いた声は小さかったので、相手の耳には届かなかったらしい。彼女は更に言葉を重ねた。
「だから、どうかお願いします。進藤六段をお一人で独占しないでください」 「嫌だ!」
この時の声は決して大きなものでは無かったにも関わらず、会場全てに響き渡った。
「嫌だって…」
ここまではっきりと断られるとは思わなかったのだろう、狼狽する彼女に情けも容赦も無く塔矢アキラは言った。
「あなたのようなくだらない女性と時間を潰すよりも、ぼくと打った方が彼にとって余程有意義です」
だから譲れと言われても絶対に譲らない、今後二度とそんな口もきいて欲しくは無いと、見下ろす目は零下三十度を思わせるように冷たいものだったので彼女は言い返すことも出来ず、ただ顔色を青く染めた。
「失礼。酒が不味くなったのでぼくは帰ります」
しんと静まりかえった中、すっと一人立ち上がって振り返りもせずに去って行く。
その後をすかさず、遠くからずっと見つめていた進藤ヒカル六段が追いかけた。
「あーあ、まったく、逆効果になったじゃないの」
二人の姿が消えて後、件の彼女は仲間からバカなことをしたと散々罵られた。
塔矢アキラは女心の解らない無粋者だ。
自己中で冷酷で男としてあるまじき失礼さであると、その後塔矢アキラ七段の評判は地に落ちた。
けれどそれで懲りたのだろう、進藤ヒカル六段に言い寄る女性はがくりと減って、でも親友同士の二人の仲は更に深まったらしい。
あの日、あの宴会場から塔矢アキラ七段が去った後を追いかけて行った進藤六段がこれ以上は無いくらい幸せそうな顔をしていたことは通りがかった一部の人間しか見ていない事実である。
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※アキラも人気はあるはずですが、怖くて誰も声をかけられない状態。この件以降、更に縁遠くなり、ヒカルもまたアキラが怖いからという理由であまり声をかけられなくなります。二人にとっては好都合です。
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