SS‐DIARY

2010年11月10日(水) (SS)とある碁界の超磁碁棋士

命がけの勝負をしよう。

そう言ったら進藤は即座に「いいよ」と言った。

「その代わり、勝負ついてから取り消すのは無し」と、条件をつけた。
「望む所だ」

いつだって進藤との一局は特別な一局で、その度に命を賭けていると思うのだけれど、一度本当の本気で命をかけてみたくなった。

それで言い出してみたもののそれを進藤が受けるとは思わなかった。

ピンと糸を引き絞ったような緊張の中、背筋を伸ばして進藤を見る。進藤もまた姿勢を正して真っ直ぐにぼくを見た。

(綺麗な目だな)

場違いに思うのは、ぼくが進藤のその眼差しをとても好きだからなのかもしれない。

「お願いします」
「お願い…します」

頭を下げる時はいつも清々しい。これから打てるその喜びと、生きるか死ぬかの戦いに体中が澄み渡る。

碁笥の中に指を入れるといつもよりも更に石は冷たく感じ、けれどぱちりと置く内に、それは次第に熱くなった。

ぱちり、ぱちり。

途中、何回かの長考を挟んで打ち続ける。

打っている時は時間が止まる。音は全て遠ざかって、彼と彼の前にある置かれた石の並びしか意識に入って来るものが無い。

何時間、何日も、もしかしたらこのまま打てるのかもしれない。

集中は体力を削ぐはずだけれど少しも疲れた気はしない。

時々ふと息をするのも忘れる程で、それ程全てを注ぎ込める碁と、そんな対局が出来る相手と、両方に出会えた自分はなんて幸せなのだろうかとしみじみと思った。


ぱちり。

二十分考えた後、ぼくが左下に置いた石に進藤はすかさずツケて二子を殺した。

左辺が甘いなと思っている内に崩されて、それでもしばらく粘ったが、挽回出来ないと踏んで投了した。

「ありません」

気がつくと、全身びっしょりと汗をかいていた。

目を上げると進藤もまた真夏のように汗をかいていて、お互いにどれだけ集中してやっていたのか解る気がした。

「おれら何時に始めたんだっけ?」

しばらくして呆然としたように進藤が言う。

「さあ…たぶん朝の九時くらいだったと思うけれど」
「今も九時になってんだけど」

十二時間ぶっ通しで休みもせずに打っていたのだと気がついて思わず笑った。

「何笑ってんだよ、昼食い損ねたじゃん」
「夕飯もだろう」

それどころか水もろくに飲んでいないのではないだろうかと思い出して、ようやく傍らに置いたままの湯飲みから濁った苦い茶を飲んだ。

「―さて」

膝を正して進藤に向かう。

「ぼくが負けたね」
「うん」
「約束を違えるつもりは無いよ。どうする?」

キミが手を下すか、それともぼくが自ら断つか。どちらでもいいとぼくは思っていた。

「あ、でもキミが犯罪者になっては困るな」

人が見たら奇異に思うかもしれない。たかが碁に命をかけるのかと、でも昔は真実命を賭けて皆打ったのだ。

そのくらい尊敬に値する相手との一局には価値がある。

「犯罪者…に、なるかなあ」

ゆらと進藤が体を起こしてぼくの方に近付いて来た。

「でもまあ、おれの勝ちは勝ちだからな」
「うん―」

一片の悔いもない。そう思って目を閉じたぼくの頬に進藤の手が触れる。

そして次の瞬間には温かな唇がぼくの唇に重ねられていた。

「―っ」

思わず突き飛ばしてまじまじと見る。

「何をやっているんだ、キミは!」
「ん? だってこういうことだろう?」

命がけの勝負の代償は相手の命を手に入れること。

「これで、おまえは今日から全部おれのもん」

にっこりと笑われて毒気が抜けた。

「…仕方無いな」

ぼくは彼に負けたのだから。

でも負けても負けなくても、最初からキミにきっと全てをあげていたよと、それだけは言わず、胸の奥にそっと仕舞ったのだった。


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