| 2009年10月10日(土) |
(SS)キミのことが好きなんだ |
泣くつもりなんか無かった。
言い争いはいつものことだし、それでお互いに睨み合い、時にはどちらかが家を飛び出してしばらく帰らないなんてことだって今まで何度もあったのに、その時普段言わずにいたほんの些細な不満から、黙っていればいいようなつまらない嫉妬まで全て洗いざらいに吐き出した瞬間に、何故か涙がこぼれてしまった。
「塔―」
ぼくの涙を見て進藤は一秒前まで怒鳴っていたのが毒気が抜かれたように非道く驚いた顔になった。
「塔矢―」 「なんでも無い、構うな」
驚いたのは彼だけでは無く、泣いたぼく本人もで、けれどどうしても止まらない涙に突き放すように言って寝室に籠もる。
ベッドに身を投げ出すようにして寝そべって枕にぎゅっと顔を押しつける。
けれどそれでも涙は止まらない。
やがて静かにドアが開く気配がして進藤がすぐ傍らに座った。
きしりという軋みと、そちら側に沈み込む感触に頑なに体を退けようとするのを軽くぽんと頭を叩かれた。
叩いたというか撫でたというか。
「塔矢…ごめんな?」
進藤の声は戸惑っているようだった。
「おれ、ちょっと言い過ぎた。だから―」 「謝るな! そんなつもりで泣いたんじゃない」 「じゃあなんで?」
そっと…そっと…労るように進藤の指がぼくの頭を撫でる。
その感触があまりにも優しくて、触れる指が温かくて、今彼がどんな顔をしているのかまでが解ってしまうような触れ方にぼくの涙腺は更に緩んだ。
「わからない…そんなこと」
泣くつもりなんか無かった。
だって泣いたら進藤が悪いことになる。そんなふうに相手を悪者にするような喧嘩をぼくは彼としたくは無かった。
どんなに罵り合ったとしても常に対等でどちらかが加害者にも被害者にもならない。そんな関係でいたいと願っていたのに、なのにどうしてこんななんでもないようなことで泣いてしまったのか。
「自分で…わかんない?」
尋ねるのにこくりと頷く。
「そっか…そうだな、そういうこともあるよな」
そしてしばらく黙ってぼくの頭を撫で続けてからぽつりと言った。
「どうしたい?」 「…何が?」 「んー…って言うか、どうして欲しい?」
それはついさっきの罵り合いのことだろうか?
彼があまりにだらしなくて予定をちゃんとぼくに伝えなかったり、ぼくが焼き餅をやくかもと変な風に気を回して女性と飲みに行ったことを黙っていたり。
他にも色々ぼくは言った。日常の細かなこと、最近の棋戦でのだらしない打ち回しのこと、彼の友人関係にまでも口を出し、彼もまたぼくに言い返した。
それを今、直して欲しいと改めて彼に言えばいいんだろうか?
「別に―」
違うと思った。
今ぼくは泣いている。止めたくても止まらない涙で頬を濡らしていて、そのきっかけは確かにそれらのことだったけれど、今それを口に出して直させるのは違うと思った。
そしてたぶん、彼がぼくに言ったのもそういうことでは無いんだろう。
「何も無いん? おれにして欲しいこと」 「…」 「それとも、もしかしてこういうふうにしつこく側に居るのが鬱陶しいんならしばらくどっか出てるけど」 「…撫でていてくれ」 「ん?」 「今してくれているように、ずっと頭を撫でていてくれ」 「そんだけでいいの?」 「…うん」
そうしたらいつかこの涙も止るような気がするからと言ったら進藤は一瞬手を止めて、それから改めて座り直すと、ぼくの頭に手を置いた。
子どもの頃から知っている、いつの間にか大きくなった掌と長い指。
その指がゆっくりとぼくの頭を撫でるのをぼくは目を閉じて感じた。
優しく、優しく、梳くようにしてぼくを撫で続ける彼の指はあまりにも気持ち良くて、ささくれだった気持ちがゆっくりと解けて行くのが自分でもわかった。
でも涙は止まらない。
撫でられて、彼の優しさとぼくへの想いがその指先から伝わって来ても頬を伝う涙はどうしても止まらなかった。
「塔―」 「ごめん」
目を瞑ったままぼくは呟くように言った。
「泣いたりして―ごめん」
そんなつもりじゃ無かったんだと言うのに黙って優しく撫で続ける。
「…おれの方こそごめん」
泣かせてしまってごめんなと進藤が言うのにぼくも小さく頷いた。
止まらない涙と優しく撫でる温かい指。
ああ、ぼくは彼が好きだ。
好きで好きでたまらないんだと、そんな当たり前のようなことを優しい指に思いながらぼくは枕に顔を埋め、改めて静かに涙をこぼしたのだった。
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