SS‐DIARY

2006年06月17日(土) 六月十五日のアンビリバボーを見た方だけわかってください。


なるべく家を空けないようにしているけれど、それでもどうしても塔矢を置いていかなければならない時がある。

大抵は塔矢のお母さんかうちの親に頼んで行くのだけれど、どちらの都合もつかない時には家政婦さんに来てもらう時もある。

今回は二、三泊になる予定だったので最も塔矢が安らげる塔矢家に預けることにした。



「ほら、アキラさん。進藤さんに行ってらっしゃいを言わないと」

最近は、すっかり口数が減った塔矢はそれでも促されて微笑みながらおれに手を振った。

「いってらっ…しゃい」

置いていかれるとわかっていない塔矢はたぶん後できっと荒れるだろう。

以前置いて遠方での仕事に出かけた時には夜、随分遅くまで家中をおれを探して泣きながら歩き回り眠らなかったらしい。

今回もそうなるのではないかと思うと胸がしめつけられるようで思わず行くのをやめると言いたくなったけれど、棋士として対局を放り出すわけにもいかないので衝動を抑えて家を出た。


今回の対局は山形だった。本因坊戦7番勝負の第5局で、もしこんなことになっていなければおれの相手は塔矢だったのだろうと思うと切なくて辛い。

着いてすぐに電話をかけ様子を尋ねる。

塔矢はおれがいないので寂しそうな顔をしているけれど、まだパニックは起こしていない。

「進藤さんの写っているビデオを見せているので落ち着いているのよ」と塔矢のお母さんは微かに笑いながら言った。

「本当にアキラさんはあなたのことが好きなのねぇ…」

数年前、おれたちが愛し合っていると知った時、唯一味方になってくれたこの人は今でもやはり一番の味方なのだった。

「じゃあよろしくお願いします」

何かあったら連絡をくれるよう約束して電話を切る。


翌日も対局前に電話をかけ、ちょうど塔矢が起きてきた所だというので代わってもらう。

「塔矢?おれだけど」
『しんどう?』

色々なことを忘れてしまっている塔矢は小さな器械からおれの声が聞こえるのを不思議そうにしていたというけれど、でも話したことで機嫌がとても良くなったと後で塔矢のお母さんに言われた。

「明日には帰るから。おまえの好きなものたくさん買って帰るからな」
『好きな…もの?』
「うん、おみやげたくさん買って帰るから」

そう言うと塔矢は電話の向こうで嬉しそうな声をあげた。

『楽しみ、まってる、しんどう』
「うん、待ってて」

その後は終わるまでかけられなかったけれど、夜にかけた時にもまだ落ち着いているようなので安堵した。

翌日、前日の続きから打ち始めて数時間、なんとか勝ちをもぎ取った所で電話する。

「塔矢?おれ今から帰るからもう少し待っててな」

もちろんインタビューなどもあるので速攻でというわけにはいかなかったがそれでも出来うる限りの早さでおれは東京に引き返した。


あまり時間は無かったけれど、昔一緒に行った酒蔵に行き、あいつの好きだった酒と他にも幾つか土産を買った。

あまり甘いものを食べない塔矢だけれど、駅の近くにある店の手作りのさくらんぼのジャムは大好きで、だから今回もそれを買った。


新幹線に乗る前にもう一度電話し、塔矢のお母さんに、帰ったらすぐに迎えに行くと告げる。


東京に着いたのは八時過ぎで、荷物が多かったのとそのまま塔矢を連れて帰るつもりだったのでタクシーで塔矢家に向かった。連絡が無かったので大丈夫だとは思ったけれど、早く顔が見たくてたまらない。


渋滞に巻き込まれはしたものの、三十分程で見慣れた門の前に着き、タクシーを待たせたまま入ってぎょっとした。

玄関の前に塔矢が立っていたからだ。



「塔矢?」

今日は朝から雨で、今はもう大分収まったものの、今でも霧雨のように雨が降っている。なのに塔矢は傘もささずに玄関の前に立っているのだった。


「塔矢、なんでおまえ…」
「ごめんなさい、進藤さん。さっきあなたからいただいたお電話で帰ってくるとわかったらしくて」

側につきそうように立っていた塔矢のお母さんが申し訳なさそうにおれに言った。

「冷えるからって何度も言ったのだけれど、どうしてもここで待っていたいらしくて…」

傘も何度もさしかけても払いのけてしまい、無理に家に入れようとすると暴れるので仕方なく好きにさせていたのだと言う。

「おまえ……びしょぬれじゃんか…」
「傘をさしてしまうと、あなたが入ってくるのがわからないから嫌だったみたいなのよ」

1秒でも早くあなたの姿が見たかったみたいと言われて胸が熱くなった。

「…塔矢」

側に行き、濡れそぼった髪を指で掬うと塔矢はじっとおれを見つめた。そしてそれからにっこりと嬉しそうにおれ向かって笑いかけ、おれの首に腕をまわしてしがみついてきたのだった。

「……り」

冷えて細かく震えるその体で、塔矢はなんどもなんども繰り返した。

「おかえり…しんど…」

寂しかったと、泣きじゃくる姿に胸が裂かれるかと思った。

「ごめん、遅くなって」

一人にしてごめんなとぎゅっと抱き返してやったら塔矢は更に大きな声で泣いた。

「しんど…う」
「しんどう…」

会いたかった、寂しかった。

それは昔の塔矢だったら死んでも口にしない言葉だった。

けれど今、病に冒された塔矢は秘めていた心を素直に口にする。

「しんどう、しんどう」

もう行っちゃいやだと、常に無くたくさん喋った塔矢はそのまま気絶するように意識を失ってしまったので、そのままタクシーに乗せて家に連れ帰った。


濡れた服を脱がせ、体と髪を拭いてやり布団に押し込むとおれも潜り込んで冷えた体を抱きしめた。

以前より更に細くなった体に不安がよぎるけれど、今はまだ何も考えないことにした。


「…ん」

眠っているはずなのにしがみついてくる。それはまだ微かに残っているおれに対する記憶なのだろうか。

若年性アルツハイマー性。

人ごとだと思っていたその病にまさか最愛の人がなるとは思わなかった。

「塔矢…」

また半月後には出かけなければならない。そのことを思うと気が重くなる。

「ごめんな、塔矢ずっと一緒に居てやれなくて」
「大丈夫」

ふっと、一瞬塔矢が目を開いた。

「大丈夫だから、進藤」

そしてそのまま再び目を閉じる。

ぼくはキミをずっと待っているよと、それはほんの一瞬だけ戻った本来の塔矢だった。

「塔―――」

発病を知った時、涙が枯れるまで泣いたその瞳は今はもう安らかだ。

泣いて、絶望して自殺までしようとした塔矢はその持っていたほとんどの記憶を無くして、でもなぜかおれのことだけは忘れなかった。

今でも石を持つと喜んで打つ。

ちゃんとした碁にはなっていないけれど、嬉しそうに幸せそうにいつまでも打っている。

そして今も変らずにおれのことを深く愛しているのだった。

(おれも随分泣いたけど)

「大好き…塔矢」

ずっとずっと死ぬまでずっと一緒に居ようなと言うと、塔矢は微かに笑ったような顔になった。

「うん…しんど…う」


愛してる。

どんなにおまえが変ってしまったとしても、おれはずっと変らないから。変らずにずっとおまえを愛し続けるからと囁いて抱きしめた。

「…暖かい」

愛しくて愛しくてたまらない。その相手を抱きしめていられる。それだけで充分幸せなのだとおれは思った。


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元ネタは先日放送の「アンビリバボー」。あんなに深く愛し合える夫婦っているのかなと思いました。でもアキラさんをこんなにしてしまってごめんなさい。非難囂々?(^^;


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