SS‐DIARY

2005年04月03日(日) (SS)花の下にて春死なむ


その日は、荻窪に新しく出来た碁会所のオープンだった。

父の知り合いの棋士が開いたもので、父の名代として当然ぼくは手伝いに行くことになり、それをたまたま居た進藤に言ったら、なぜかもれなくついてくるおまけのよう進藤もついて来たのだった。

「おや、これは…進藤二段じゃないですか」

二段とはいえ、若手の中で注目株の進藤はかなり顔が知られていて、なので素直に大喜びされてしまった。


「いやいや、先日の天元戦の予選、素晴らしかったですなあ」
「でも、まだ予選ですから」

最初の頃は襟元が窮屈そうだったスーツも今ではしっくりと肩に馴染む。
色々なことが相応になってきた進藤は、かけられる賛辞をさらりとかわしていた。


ぼくと進藤と他にも何人か応援にかけつけたことで、人の集まりも多く、碁会所は初日としてはなかなかの盛況ぶりになった。


手分けして希望者の指導碁をして、少しだけ茶話会のように来たお客さんと囲碁の話をした。
断ったけれど、どうしてもということで会食会にも出席して、でも翌日仕事があるからと、それは途中で抜けさせてもらった。


八時という、本来ならまだまだ電車の混む時間だったけれど、ちょうど方向が混むのとは逆方向だったために、ホームもおかしな程がらりとして人の姿はあまり無かった。

「少し疲れたね」
「…ん」

いつもだったら立って待っている電車をどちらともなくベンチに座ってしまったのは、疲れているのと酔いがまわっていたせいもあったかもしれない。


「ぼくは明日十時からだけど、キミは?」
「おれ?…おれは何時だったかなあ。でもたぶんもうちょっと遅い」

だったら少しゆっくり出来るねと、ぽつりぽつりと話しているうちに、ふいに眠気に襲われて、ぼくは目を閉じてしまった。

うつらうつらと、夜とはいえ、春の夜風は心地よくて少し気を抜くと本当に深く眠ってしまいそうだった。

「塔矢?」

話しかけていて、ぼくの返事が返らなくなったものだから不審に思ったのだろう。進藤がぼくの名を呼んだ。

「塔矢?もしかして寝てる?」

起きているよと言おうとしたけれど、口を動かすのが少しだけ面倒で、相手が進藤という甘えもあって、ぼくはそのまま寝たふりをきめこんでしまった。

「塔矢、おいってば」

反対方向の電車は行くのに、ぼくたちの乗る電車はなかなか来ない。


「なんだよー寝ちまったのかよ、つまんねえなあ」

ぶつぶつとつぶやく声に笑いそうになりながら、それでも心地よくぼくは夜風に吹かれるままになっていた。

もう少ししたら目を開けて、眠ってなんかいないよと言おうとそう思った時、のぞき込んでくる気配があった。


「……こうして寝てるとかわいいんだけどなあ」

それは本当に独り言というような小さなつぶやきで、でもはっきりと耳に届いた。


「でも、おれだけのもんじゃ無いんだもんなあ」

拗ねたようなつぶやきは、ぼくが眠っていると思っているからこそ出た彼の本音なんだろう。


「今日だって結局、全然打て無かったし…」

仕事だからしゃーないけど、でも、へらへらおれ以外に愛想ふりまいてんじゃねーよと、随分な言いようだけれど何故か胸が熱くなった。


「まったく…ジーさんキラーなんだから」

言ったかと思ったら、だらりと投げ出したままにしていた手がきゅっと握られた。

「でも、今はおれのもん」


今だけはおまえ、おれだけのもんだと。

温かい指で強く握られて顔が赤く染まった。


「あー……電車なかなか来ねーなあ」


つぶやきながら、進藤はそれからずっとぼくの手を握り続けた。


春の花の香の混ざる夜。

このまま永久に電車が来なければいいと―。



寝たふりをしたままのぼくは、たまらなく、たまらなく幸せだった。


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