体中の力が入らなくて、畳の上に腕を投げ出したまま、ぼんやりと自分の指の先を見る。
少しでも動いたらきっと崩れてしまうと思うから、後ろにキミがいるのはわかっているけれどぼくは絶対に振り向かない。
夫婦でも強姦罪は成立するんだってねと、言ってやったらキミは一体どんな顔をするだろうか。
だから恋人同士だって合意の上でなければそれはいつでも強姦なんだと、そう言ってやったら一体キミはぼくになんと答えるのか。
きっかけはささいなこと。意見のぶつかりあいから喧嘩になって、帰ると言ったのを無理矢理引き倒されてそのまま抱かれた。
言い争いはいつものことだし、強引なのもいつものことだけど、なんだか今日はぼくたちの間にあった何かを壊されてしまったような気がして、許してやることが出来ずにいた。
だってキミは今日、ぼくを愛さずに抱いたから。 欲望のはけ口として、腹立たしさを紛らわすために力でぼくをねじ伏せた。
嫌だというぼくの口を唇で塞ぎ、まだ準備も出来ていない中に無理矢理に押し入って来た。
痛いと
苦しいと
懇願しても聞かなかった。
ただ自分の欲望を満たすためにぼくを抱いたキミをどうして許すことができるだろう。
何時間も
何時間もそのまま、二人沈黙の中で過ごして このまま夜が明けるのかなと思った頃に、ふと進藤がつぶやいた。
「…蝉」
蝉が鳴いてると、でもだからなんだと返事なんかしてやらない。
「蝉って、こんな時間にも鳴いてるんだっけか」
話のきっかけにしたいのか、それとも単純に気になるからなのか、進藤はぼくに話しかける。
「なあ、ガキの頃はこんな時間に鳴いてなんかいなかったよなあ」
やがて、背後で立ち上がる気配がして、進藤が窓を開けたのがわかった。 冷房で冷やされた室内に、一度に生ぬるい外の空気が流れ込み、同時に耳を打つように激しい蝉の鳴き声が聞こえてくる。
「なんか…すげえ鳴いてんのな」
鼓膜がしびれるような、確かに異様なほどの鳴き声だったけれど、ぼくは返事をしなかった。
「なー、塔…」
蝉なんか、どうでもいい、その前に言うことがあるだろうと、思った瞬間涙がこぼれた。
「塔矢?」
堪えたつもりだったのに、どうしても絞り出すような声がもれて、進藤が慌てて窓を閉めるのがわかる。
「塔矢、塔矢」
ごめんとこの時になって初めて進藤はぼくに謝ったのだった。
「…ごめん、おれ、非道いことした」
体キツイ?と怖々触れようとするのをぼくは思い切りはねつけた。
「触るな!」
キミになんか触られたくないと、言うと進藤は痛そうな顔をした。
傷ついたのだとわかったけれど、傷つけばいいとそう思った。 傷ついて傷ついて泣けばいい。
「キミなんか嫌いだ」
一度開いた口は、思いがけずなめらかに言葉を発して、ぼくは心のままに彼に罵詈雑言をぶつけた。
最低だ、大嫌いだ、もう別れると、言いながら、でもだんだん声は嗚咽のようになってしまう。
「キミなんか…」
肩を丸め、声をあげないように唇をきつく噛んだら、逆に子どものような泣き声になってしまった。
「キミなんか…もう」
肩を震わせて泣いていたら、ふいに右手の指先に何か感じるものがあった。 少しだけ顔をあげてみると、進藤が跪くようにしてぼくの指先にキスをしているのだった。
「…し」
ぼくと目が合うとくしゃっと泣きそうに顔を歪めて、それから言う。
「触んないから、これだけ許して」
指先だけ、おれに許してと。 欠片だってもう、キミにやるものかと思っているのに、何故か指を引けなかった。
「ごめん…塔矢、おれ頭に血ぃのぼっちゃって」 「だから?だから犯してもいいって?」
体中が痛い。 まだ痛い。 でも一番痛いのは心だった。
「もう二度としないから、塔矢」
言って、進藤はぼくの指先に愛しそうにキスを繰り返す。そうすることで許されるとでも思っているのか、何度も、何度もキスをする。
「もう絶対しない、誓うから」 「そんな誓いなんかしてくれなくていい」
こんなキスくらいで絶対にキミを許すものかと、そう思うのに、でも心の中のぼくはもう揺らいで、彼のことを許しつつある。
「…おれのこと怒ってる?」 「怒っているよ、決まってるだろう」
すがるような顔が愛しくてたまらないから。
「ごめんなさい、もう絶対二度とこんなことしないから」
今にも泣きそうなその顔が胸に痛くてたまらないから。
「もう絶対に―」 「…嘘つき」
キミの二度とは当てにならない。 そんなことを言っても、きっとまた同じようなことをするくせに。
「愛してる―塔矢」
どうしてそんな、切ない顔をするのだとそう思う。
本当にごめんと、彼がぼくの指を口に含むのをぼくはもう拒むことができなかった。
(猿以下だ…)
わかっていても感情に流されてしまう。
許してと言われれば許してしまうし、愛していると言われればどんな非道いことをされても嬉しいと思ってしまう。
愛してる
愛しているから
だからおれを捨てないでと、なんて卑怯でなんて愛しい。
例えどんな非道いことをされても、きっとぼくはキミのことを嫌いになんかなれないんだろうと思ったら悲しくなった。
(本当になんてぼくは…)
愚かなのだろうかと、まだうるさく鳴く蝉の声を聞きながら、再び体を開いていく自分に、ぼくはたまらない程切ない気持ちになったのだった。
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