| 2004年08月03日(火) |
(SS)さかなへんによろこぶ |
いつそうしたのかはわからないけれど、久しぶりに実家に帰ったら台所の入り口には、真新しい暖簾がかけられていた。
たぶん懇意にしている寿司屋からもらったのだろう、その暖簾は紺地一面に魚へんの漢字が染め抜かれていた。
よく寿司屋の湯飲みにあるような柄で、普通なら下衆になる所を達筆な筆と染めの粋が救っている。
先週、一週間ほど戻ってきて、またとんぼ帰りで中国に戻って行った母がかけて行ったのだなと思ったらなんだからしくておかしかった。
「なあなあ、おれ喉乾いた」
外出の途中ちょっと寄るだけだからと言ったのに、何が楽しいのか中まで着いてきた進藤は久しぶりに入るからだろうか実家の中を物珍しそうにうろつきまわってから、しばらくして台所に来た。
「わ、なにこれ、寿司屋みてぇ」
言うだろうと思ったことをそのまま素直に言われておかしいような、恥ずかしいような気持ちになった。
「母がかけていったんだよ、たぶん。裏の錦寿司さんじゃないかな」
ほら北斗杯の合宿の時、出前を頼んだ店だよと言うと、「ああ、あの卵焼きがすげーうまかった寿司」と変な納得の仕方をしていた。
「あれ美味かったなあ。おれ卵焼きってけっこー好きなんだけど、あんまりおいしいのには当たったこと無いんだ」
彼が普段、どんなものを食べているのかは知らなかったけれど、錦寿司の厚焼き卵がおいしいのは本当で、それ目当てで出前を取る人もいると言う。
「ぼくもあれは好きだけどね」
言いながらコップに入れた水を手渡してやると、進藤は立ったままそれを飲みながら、じっと暖簾を見つめていた。
「えーと…これわかる。カツオだろ?それからまぐろ…シャケとあ、おれすげえイワシもわかる」
なんだこれ、べんきょーになんじゃんと笑って言うのに苦笑して、でもついつられて一緒に見てしまう。
「じゃあ、進藤、これは?」 「わかんねい」 「はも、だよ」 「こっちは?」 「知らない」 「…さわらだよ」
普段でもよく目にするような漢字はすらすらといけたが、それ以外になると途端に進藤の口は重くなった。
「他はわかるのある?」 「えーと…わかった! これはクジラだ!」 「ひらめだよ」 「んじゃこっちのはサンマだ!」 「たちうおだよ」
あてずっぽうで言ったものが全部間違っていたものだから、進藤はすっかり拗ねたような顔になってしまった。
「ちぇーっ、おれんちびんぼーだったからそんな高そーな魚食ったこと無いもん。食わないやつはわかんねーっての」 「いや、ぼくも別に全部食べたわけでは…」
一般常識だろうと言うと更に拗ねてしまいそうなのでそれは言わないでおいた。
「まあ確かにぼくは普通よりは色々食べている方だと思うけどね」
人が集まり、出入りの多いこの家ではぼくが幼い頃からよく酒宴が持たれて、その席に混ざったぼくはおもしろ半分の大人たちに色々と高いものを食べさせられたのだ。
「海胆も鰻も鱧も全部就学前に味を覚えたよ」
ぼくは覚えてないけれど、幼稚園で先生に「好きなもの」を聞かれて「酒盗」と答えたという笑い話まで残っているくらいだ。
「うわ…やなガキ」 「仕方ないだろう、みんなおもしろがってやめないんだから」
さすがに中学に入ってからはおもちゃにされることも無くなっていったのだけれど、隠れてこっそりと酒の味を教えられたのはあまりにあまりなので、進藤には言わないことにする。
「なー、おれあの寿司食べたくなっちゃったな。出前って今できねーの?」 「できなくはないけど」
これからうちの碁会所に行くはずでは無かったのかと、それがそのまま顔に出てしまったらしい、進藤は苦笑するとすぐに付け加えた。
「ん、もちろん碁会所には行くよ?でもその前にちょっと遅めの昼飯食ってもいいんじゃないデスか?」
なんだったら碁会所に行かないでこのままここでずっと打ってもいいしと言われて、なるほどそれでもいいかなところっと思ってしまった自分を恥じる。
(まあ、要するに進藤がいて打てればぼくはいいわけだから)
本当にこのままここで打ってしまってもいい。
「じゃあ出前を頼むね。…もちろん自腹だから」 「わかってるってば」
おれヒモじゃないから恋人の細腰になんかたかりませんと、わけのわからないことを言って、進藤は勝手知ったるなんとかで、いそいそとお茶の用意をし始めたのだった。
「これどうすりゃいいの?」
食べ終わって、しばらく満腹の幸せにだらしなく床に転がった後、ぼくたちは二人で後かたづけをした。
進藤はずぼらで面倒くさがりだけど、こういうことで文句を言ったためしはなく、今も食べ終わったすし桶を抱え、思案顔でこちらを見ている。
「ざっと洗って、それで表に出すからこっちに貸して」
湯飲みを洗っていたぼくが手を出すと、進藤は言われた通りにして、そしてそのままじっとまた気がつけば暖簾をながめていた。
「なー、さかなへんに交わるって何?」 「サメだろう」 「んじゃあさあ、さかなへんに怨念の念って…」 「ナマズ」
へーこえー、ナマズって怖いなあと笑いながら進藤は再び暖簾に目を戻し、それから言った。
「なあ塔矢、さかなへんに喜ぶって書いてなんて読むの?」 「さかなへんに喜ぶ?」
一瞬考えてすぐに思い出す。
「ああ、それはキスだよ―」
暖簾越し、桶を渡そうとした手をそのまま引っ張られて、気がつけばちゅと舐めるようにキスをされてしまった。
「しっ―」 「へへーん、それは知ってたんだよ」
びっくりした顔のぼくを進藤はいかにも嬉しそうに見つめて笑った。
「しっかし、ほんとさかなへんに喜ぶなんて、ぴったりだよなあ」
だってキスだぞ、キス。キスって嬉しいもんなあ。する方もされる方もさと進藤は同意を求めるように言うのでぼくは真っ赤になってしまった。
「ほら言ってみ、さかなへんに喜ぶは―」 「知るか!」
つっけんどんに言ってすし桶を押しつけると、ぼくは濡れたままの手で暖簾を外そうとした。
「えーなんで?いいじゃん。おもしろいのに」 「かこつけて不埒なことをするようなバカがいるから外すんだ」
言いながらもどんどん頬が熱くなっていくのがわかる。
「んじゃあさ、後一つだけ教えてよ、そしたら外していいからさ」 「…」 「これこれ、さかなへんに里ってなんて読むの」
無邪気な顔をして尋ねてくる。その顔を悪魔だと思った。
「なあなあ、さかなへんに里ってさぁ」
わざとだ、絶対わざとだと思いながら、突っぱねることも出来なくて、ぼくは更に真っ赤になりながら、消え入りそうな小さな声で「こい」とつぶやいたのだった。
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