SS‐DIARY

2004年05月23日(日) (SS)オガアキではないのよ?

もう長い付き合いだけれど、緒方さんは時々変に子どもっぽい所があると思う。

物心ついた時からぼくにとって緒方さんは親以外で最も間近にいる「大人」で落ち着いていて、棋士としても先を歩く大先輩であるのに、時に進藤と同じレベルで幼稚とも言える悪ふざけや意地悪をする事があるからだ。

「おい、アキラ」
「…なんですか?」

囲碁サロン。父が日本にいつかなくなってから自然と足が遠のくようになっていた緒方さんと芦原さんが珍しく二人揃ってやってきたその日、たまたまぼくと進藤もいたものだから、なんとはなしにそのまま二組に別れて打つことになった。

「おれとアキラ、芦原と進藤、それでいいな」
「いいも悪いも緒方さんがそう決めたら、だれも逆らえないじゃないですか」
「あー、ねぇ…。緒方さん強引だから」

ごめんねえ、と芦原さんがフォローするように言う。

「なんだ?アキラはこの組み合わせはイヤなのか?イヤならおれは別に進藤でもかまわないぞ」
「おれは別にどっちでもいいっすけど」

「でも」扱いされたくせに、進藤は気にしたふうもなく腰を浮かせる。

「じゃあ、おれと緒方さんで、おまえと芦原さんでやる?」
「いや、いいよ。別に不満があるなんてぼくは一言も言ってないし」

ただ選択肢が無かったのがちょっと嫌と言えば嫌だったのだが。

緒方さんはぼくの顔をじろじろと見ると、少しだけ口の端を持ち上げるようにして言った。

「そうか?…先々週のことがあったから、おれと打つのが嫌なのかと思ったが」

先々週、富士通杯予選三次で当たったぼくと緒方さんの一戦は、一目半で緒方さんの勝ちだったのだ。
明かなぼくの読み間違えで、思い出すといまだに自分のふがいなさに腹が立つのだが。

「対局の結果をいつまでも引きずったりしませんよ」
「ふうん?」

意味ありげに人の顔を見て、それから取り出したままくわえずにいたタバコを惜しげもなく灰皿に押しつけると、緒方さんは「さて、やるか」と姿勢を正した。

「お願いします」
「お願いします」

隣のテーブルでは進藤と芦原さんが既に打ち初めていた。

公式戦では無い気楽なはずの一局。でもずっと先を歩いている高段の棋士との一戦はぼくにとって公式戦と同じくらい緊張するものだった。
ましてや最近負けたばかりの相手と打つのは普通に打つ以上のプレッシャーが、かかる。

(今日は負けない)

絶対に勝ってやると密かに決めると、ぼくは石をつかんだのだった。

けれど…。



「あー、悔しい、負けちゃったなあ」

じゃらと石を碁盤に落として芦原さんが言う声が右の耳に聞こえた時、ぼくはじりじりとした思いで盤面を見つめていた。

「進藤くん強くなったよね」
「そんなことないです。中盤結構しんどかったですよ、おれ」

「ありません」と、そしてそのまま楽しそうに隣は検討に入っていった。

こちらはと言えば、もうほとんど終局でぼくが一言、言えばそれで終わるのだった。

「ん?」

盤面を見、それから顔を上げて緒方さんを見ると、なんだ?と言いたげに目をすがめる。

「…ありません」

じゃらと掴んでいた碁石を碁笥にもどすと、知らず大きなため息がもれた。

「結構、食らいついてきたじゃないか」

手早く整地をしながら緒方さんが言う。するまでもなく、半目の負けだとお互いわかっているのだけれど、それをきちんと数え、目で見せてからでないと許してくれないのは性格が悪いとそう思う。

「ここで、おれが上辺に手を入れると思ったんだろう」
「ええ。ここでケイマに飛んで、そのまま黒二つを狙うのかと」
「それも考えたがな、敢えておまえが取るままにさせたんだ」
「でも、それは賭けですよね。その後ぼくがここを封じてしまえば、白の連絡は断たれてしまう。そうなったらもういくらがんばっても右は取り戻せませんよ」
「そうはならないと思ったからな。賭けさせてもらった」
「え?」
「わかっていても、おまえは流れとして美しくない打ち方は避ける傾向にあるから―」

あーそーそー、塔矢ってそーゆーとこあるーと、検討中のバカがチャチャを入れた。

「そ、そんなことないです」
「いや、あるな。進藤はさすがにおまえのことをよく見ている。その証拠にこの前の本因防戦二次予選でも―」

人が思い出したくない負け碁を緒方さんは嬉しそうに持ち出して、こうだった、ああだったと並べて見せはじめた。

「ああ、この時はちょっと後半焦っちゃったんだよね、アキラ」
「あー、津川七段とのやつかぁ」

いつのまにやら進藤と芦原さんも自分たちの検討を放り出してこちらに来てしまっている。

「ここのトビがぬるいから、こっちにツケて調子を出した方が良かったんだよね」
「いや、でも左下の隅を生かしたかったんだったら―」
「あの…」

別にかまわないのだけれど、こういう検討はなんとなく居心地が悪い。目の前の相手がにやにやと笑っている場合は尚更だ。

「あー、ごめんね、アキラ。拗ねちゃった?。つい夢中になっちゃって」
「こら、甘やかすな芦原。負けた碁は、きちんと検討した方がいいんだ」

そして緒方さんは、今度は更にその一月ほど前にやはりぼくが負けた農林杯の予選の棋譜などを並べだした。

こう負け碁ばかり持ち出されてはたまらないと文句を言おうとした瞬間に進藤がぽつりと言った。

「あの…もしかして、緒方さんてガキの頃、飼ってた猫や犬をかわいがり過ぎて、病院送りにしたことありませんでしたか?」
「え?」

らしくなくぎょっとしたような顔を緒方さんがしたことに少し驚く。

「そ、そんなことは…」
「したよね」

ごまかそうとしたらしいのを芦原さんがにこにこと遮る。

「確か実家で飼ってた猫を二匹、ストレスで病院送りにしちゃったって。だからお兄さんに『今後ペットは直に触れられないものにしろ』って言われちゃったんだよねぇ」

だから今、この人熱帯魚飼ってるんだよと、笑いながら言われて緒方さんの顔は目に見えて渋くなった。

「余計なことを」
「っつーか、緒方さん、長男じゃないんデスか」

進藤が別な所に反応して言う。

「いるんだよねぇ、緒方さん。十歳年上のお兄さんが」

だから名前も「精次」でしょうと言われて納得した。実はこれほど長い付き合いにもかかわらず、ぼくは緒方さんにお兄さんがいるなんてことを全く知らなかったからだ。

「へえ…そうなんですか…お兄さんが…」
「そ、無茶苦茶恐い人でね、だから早くから実家を出ちゃったんだよね」

放っておけばそのまま幾らでも緒方さん情報を垂れ流しそうな芦原さんを睨んで黙らせて、それからどことなく拗ねた口ぶりで緒方さんは進藤に言った。

「で、なんだっておまえはそう思ったんだ?」
「え?」
「だからなんでおれがペットを可愛がり過ぎるとか、そういうことがわかったんだ」
「あー、だってこいつへの態度見てたらそうかなって」

屈託なく笑われて、思わず緒方さんとぼくは顔を見合わせてしまった。

「いや、そんなことは…ある…かな?」

考えこまれては立つ瀬が無い。
ぼくにとって緒方さんは先を行くライバルなのに、緒方さんにとってのぼくは愛玩動物と同じだったなんて。

けれどそのむっとした気持ちがもろに顔に出てしまっていたらしい、緒方さんはにやりと笑うと、フォローのつもりなのかこう言った。

「いや、大丈夫だアキラ。その、なんだ。犬や猫は少なくともおれに牙をむいては来ないからな。同列には置いていない」

「じゃあ野良猫?」

犬って感じじゃないもんなと、ここでまた進藤がいらぬ口出しをするものだから、思い切り後ろ頭を殴ってしまった。

「そうだな、確かにおまえらは野良猫だよ。おれから見たらな」
「ら?」
「おまえも進藤も、ミルクを欲しがってぴーぴー泣いているくせに生意気にくってかかってくる困った野良猫だよ」と、そう言って何がおかしいのか突然大きな声で笑いだした。

「ど、どうしたんデスか?」
「そうだよ、どうしちゃったの緒方さん」

芦原さんまでがぎょっとしたような顔をするのに苦笑のように眉を寄せて、それから緒方さんはぽつりと言ったのだった。

「…こんなこと考えるのも嫌だけどな、あのくそジジイの気持ちが少しだけわかったような気がしたんだ」

「ジジイって…ああ」

そのくそジジイが誰かは言われなくてもすぐわかったので、進藤もぼくも怒る気も失せ、つられるように笑ってしまったのだった。


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