| 2006年09月12日(火) |
運を味方につけたい(2) |
そこで知ったのが、姓名判断だった。 これはけっこう深く研究したものだ。 その甲斐あって、最終的にはネーミングまでやることができるようになった。 何度か赤ちゃんの命名を頼まれたりしたが、その時付けた名前がよかったのか、いまだに感謝されている。 しかし、名前というものは、あくまでも人為的なものである。 人為的なものでは、人の持っている先天的な『運』まではわからない。 まあ、そういう名前になるようになっていたと捉えれば、先天的でないことはないのだが…。
ちょうど姓名判断の限界を悟った頃だったろうか、三国志を読んでいて、すごい占いがあるのを知った。 あの諸葛孔明が活用していた占いで、性格や運だけでなく死期までわかるというのだ。 「これだ!」と思ったぼくは、さっそくその関係の本を漁りに、本屋へと向かった。 それは四柱推命という占いだった。 生年月日時で占うもので、その組み合わせは60の4乗というから、何と1296万通りの型があるわけである。 12通りの型しかない星占いや、わずか4種類の型で分ける血液型占いとはスケールが違う。
本屋にはいろいろな四柱推命の本が並んでいた。 が、けっこう難しいものばかりだ。 とりあえず簡単な入門書を選び、それで基本を学ぶことにした。 ところが、その本はかなりいい加減な本で、そこに書かれていたぼくの性格は、まったく違うものだった。 悪いことを書かれていても、心当たりがあれば納得することも出来るのだが、心当たりのないことが綿々と書かれている。 おまけに初年運のところには、「父親の恩恵を受けて、ぬくぬくと育ってきた」などと書いてある。 冗談ではない。 ぼくの父親は、ぼくが3つの時に死んでいるのだ。 遺産があったわけでもなく、どう考えても父親の恩恵を受けたとは思えない。 しかもその本では、星占いのように12通りの型に当てはめ、それで占うようになっていた。 これではせっかくの1296万通りも役に立たないではないか。 ということで、その内容に嫌気がさしたぼくは、その時点でその本を捨て、同時に四柱推命も諦めた。
それからまたいろいろな占いを探し回ったが、どれも自分を納得させるものはなかった。 ということで、結局自分の持っている『運』がわからないまま、ぼくは社会に出たのだった。
社会に出てから、相変わらず姓名判断はやっていたものの、占いというもの、いや『運』という言葉から遠ざかっていた。 その間、昇進したり、左遷の憂き目にあったり、転職をしたりと、まあ普通のサラリーマン人生を歩いていたわけだ。 しかし、何か違う。 何か物足りない。 それは、そこに『運』を感じないことへのいらだちだった。
再び『運』を探す旅が始まった。 またいろいろな占いを研究するようになるのだが、最終的に行き着いたのは、若い頃に諦めたはずの四柱推命だった。 最初に諦めた時から、もう20年近い年月が流れていた。 そのため、自分の人生の資料も充分に用意できていた。 そこで、それまでの人生に起きたことを、四柱推命にいちいち当てはめてみた。 「すごい!」の一言だった。 どういう時に自分が強くなれて、どういう時に自分が弱くなるのかが、的確にわかるのだ。 そして、自分の持っている『運』も知ることができた。
もしあの時四柱推命を諦めずに、しっかりと研究していたら、『運』活用することも出来、もう少し違った人生を歩めたかもしれない。 しかし、それをさせなかったのは、ぼくの『運』であった。 どうもぼくは、先頭切って積極的に走っていくよりも、何ごとも人より遅れてスタートしたほうがいい『運』を手に入れることができるようなのだ。 だから花咲くのは、人生の後半なのである。 人生の後半か、そろそろその時期にさしかかっている。 …と思いたい。
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