| 2006年02月26日(日) |
レジャーモービルの女(3) |
その様子を見ていたせっかちな鼻髭が言った。 「もういいですか?」 相変わらず無表情である。 「は、はい。いいです…」 ということで再び録音が始まった。 緊張と焦りで、ぼくののどはカラカラになっていた。
ここで付け焼き刃のもろさが出てきた。 歌い方のほうである。 ポプコンバージョンで歌っていたつもりが、いつの間にか元の歌い方に戻っているのだ。 せっかく午前中うまくいっていたのに、である。
これがもし自宅での録音なら、いったん中断して、気を落ち着かせ、口を潤すことだろう。 しかしここはヤマハ。 しかも一発録音である。 ここで中断するわけにはいかない。 中断する権限を持つのは、あの鼻髭だけだ。 ということで、最悪の状態のまま録音は続いた。
そして、悪戦苦闘しながらも、何とか最後までこぎ着けた。 その時だった。 またしても付け焼き刃のもろさが出たのだ。 今度はギターである。 午前中、あんなにうまくいっていたエンディングのギターソロをきれいに忘れてしまったのだ。 とにかく付け焼き刃なので、頭の中では出来上がっているのだが、体で覚えるまで練習してない。 そのため、頭の中の記憶が消えてしまうと、演奏できないわけだ。
『どうしよう…』 ここを何とかしないと終わらない。 『どうしよう…、どうしよう…、どうしよう…』と思いながら、適当に弾いた。 そして終わった。
「はい、お疲れ様でした」 鼻髭が無表情に言った。 緊張と焦りの時間は終わった。 演奏といい、鼻髭の態度といい、何かと不満の残る録音となった。 だが、終わったことを悔やんでもしかたないと思い、スタジオを出る時は、明るく鼻髭に「ありがとうございました。よろしくお願いします」と言った。 ところが鼻髭は、こちらを振り向きもせずにため息をついていたのだった。
スタジオを出るとMさんが待っていた。 Mさんは開口一番、「よかったよ。いいところまで行くと思うよ」と言って労をねぎらってくれた。 その言葉を聞いて、ぼくの緊張と憤りは何とかほぐれたのだった。
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