昨日の朝、家を出て思わず鼻を覆った。 何か臭いのだ。 どんなにおいなのかと聞かれても、ちょっと返答に困るのだが、消毒薬が発酵したような臭いと言ったらいいだろうか。 おそらく、台風が置いていったにおいなのだろう。 とても健康的なにおいだとは思えなかった。
「あまりそのにおいを嗅ぎすぎると、気分が悪くなる」 直観的にそう判断したぼくは、息を止めて車に乗り込んだ。 そして、素早くドアを閉め、エンジンをかけて、エアコンのファンが回り出すのを待った。 ファンが回り出してから、ようやくぼくは空気を吸い込んだ。 ところがである。 車の中も外と同じように、消毒が発酵したような臭いがするのだ。 狭い空間ゆえに、そのにおいはさらに強烈だった。 きっと前日の台風の風が、エアコンの吹き出し口から吹き込んだせいだろう。 とにかく臭い。 しかし、車を降りるわけにはいかず、そのまま出発した。
さすがに運転中は息を止めるわけにはいかない。 そこで窓を開けることにした。 ところが、前日の雨がまだ残っていて、全開すると雨が降り込んでくる。 しかたなく、雨が入り込まない程度に窓を開けた。
においはなかなか取れない。 それどころか、開けた窓から新たなにおいが入ってくるのだ。 さらにそのにおいを嗅ぐたびに、つい不健康なことをイメージしてしまう。 そのイメージとは、大量のばい菌に自分が侵されている姿だ。 「このままじゃ、完全に気分が悪くなってしまう」 そう思ったぼくは、せめてイメージに気を取られまいと、CDをかけ、それに合わせて歌を歌うことにした。 これは効果的だった。 歌っている間は、ばい菌から逃れられている、つまりイメージが消えてしまうのだ。
しかし、そう喜んでばかりもいられなかった。 歌ったら歌ったで、新たな問題がぼくを襲う。 どういう問題かというと、走行中はいいのだが、信号待ちの時は窓を開けているせいで声が外に漏れる。 AメロとかBメロとかいう部分を歌っているなら、そうまでもなかったのだろうが、タイミングがいいというのか悪いというのか、そういうときに限って、サビの部分に入るのだ。 サビを歌う時、ぼくは力んで、どうしても大声を張り上げてしまう。 そのたびに、横の車の人が変な顔をしてこちらを見る。 気にしなければいいのだが、これが気になって仕方ない。 ということで、急に声が萎えてしまう。
「昔ミュージシャンを目指していたというし、ネット上に臆面もなく歌を上げているくらいだから、歌っているのを人に聞かれても、何も気にはならないのではないのか」、と思われるかもしれない。 が、そうでない場合もあるのだ。 人前で歌う時は、それなりの気構えがいるものである。 しかし、ぼくのいる環境はほとんど我が家とも言っていい、プライベートな車の中なのだ。 しかも時間は朝である。 とてもそんな気構えにはなれない。
さて、声が萎えてしまうと、またばい菌イメージが蘇る。 そこで信号が青になるのを待って、再び熱唱を始める。 そしてまた、赤信号で声が萎える。 会社に着くまでの約30分間、ぼくはそうやって、におい、そして自分と闘っていたのだった。
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