スランプ
思い通りにならないことを 悩まなくてもいい 思い通りにならない時は 思い通りにならないんだから それは流れの中の通過点なんだから その場所に自分がいるんだから スランプ面なんかしなくてもいい 無理にいじくらなくてもいい 思い通りにならないことは 決して不幸なんかじゃない それはその時の自分なんだから
ぼくは中学の頃、詩が書けなかった。 どう書いていいのかわからなかったのだ。 「詩を書いてこい」言われても、何も出てこなかった。 その時提出した詩というのは、どう見ても作文だった。 「・・・・でした」「・・・・します」のオンパレードである。 それでも点をもらえたのは、温情だったのだろう。
詩が書けるようになったのは、高校に入ってからだった。 ある日突然書けたのだ。 それから、面白いように詩が書けるようになった。 何で、こんな簡単なことが今まで出来なかったのだろう、と思ったものだった。
1年のある日、現国の時間に何人かが指名され、「次の現国の時間までに、詩を一編作ってくるように」という宿題を出された。 その中に、ぼくが詩を作っていることを知っている子がいた。 彼女は「しんた君、詩を作ってくれん?」と依頼してきた。 「お前の宿題やろうが。何でおれが書かんといけんのか。自分で書いてこい」 そう言いながらも、詩作の絶頂期であったぼくは、彼女の依頼を引き受けた。 その時書いた詩を読んだ先生は、「平易な言葉だが、訴えるものがある」と誉めていた。 調子に乗ったぼくは、また詩作に励んでいく。
ところが、3年くらい経った頃、また詩が書けなくなった。 そこから苦悩が始まる。 今となってみれば、詩が書けないくらい大したことではないのに、あの時は真剣に悩んだものだった。 そうこうしているうちに、ぼくの人生上のスランプと重なってしまった。
「スランプだなあと思う時がある。 何かをやっていて、 ふと、ため息をつく時である。 仕事を途中で投げ出しては、 妄想に耽っている。 いつまでたっても眠れない。 哀しい時である。 寂しい時である。 それが生まれてから今日まで ずっと続いていたような気がする。」
合間にこんな泣き言を書いている。 よほど辛かったのだろう。
それ以降徐々にスランプを脱出していくのだが、もはや高校時代のように、面白いように詩を書くことはできなくなった。 その分中身を充実させることにした。
その後も何度かスランプに悩むのだが、そういう時は一切詩のことを考えないようにした。 「詩のことを考えてないのだから、これはスランプではない」という論法である。 そういえば、ここ10年近く、ずっとその論法できている。 というより、今が詩的スランプであるというのも、頭にないのである。 もはや、詩に対する情熱も失せたのだろうか。 ということは、今は情熱スランプだと言い換えることも出来るだろう。 これは困った問題だ。
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