一度、ぼくはその女に「何かしたいことがあるんやないと?」と聞いたことがある。 その時、女は「歌手になりたい」と言った。 「歌手? じゃあちょっと歌ってみてん」 女は中森明菜の『DESIRE』を歌い出した。 ところが、下手だった。 「歌手はあきらめたほうがいいんやないと」 「何で?」 「何で、と言われてもねえ」 「歌手がだめなら、何か仕事探して」 「じゃあ探してやるけ、『B'ing』か『求人案内』買って来てん」
翌日、女は『求人案内』を持ってきた。 ページをめくっていると『新卒者特集』のところに、地場では有名な会社が載っていた。 「あ、ここがいいやん」 「どれ?」 「H社」 「H社とか知らん」 「知らん? あんな有名なところを知らんと?」 「だって知らんもん」 「まあ、知らんでもいいけ、とにかくここ受けてみてん」
さっそく女は、H社に面接を受けに行った。 数日後、採用通知が来た。 その後、女はアルバイトを辞めて、H社に入社した。 仕事の内容は受付だった。 たまにうちに来て、「あたしの他は、みんな高卒やけ話が合わん」とこぼしていた。
それから2ヶ月ほどしてのこと。 女は突然ぼくの横にいた。 「にいちゃん、あたし辞めたっちゃ」 「は? 辞めた?!」 「うん」 「何で辞めたんか?」 「何となく」 「何となくだけで辞めるか、普通」 「何となくやけ、何となくなんよ!」 女は逆ギレした。 この女、激昂すると顔つきが変わる。 「今辞めてどうするんか。そんなに就職ないやろ」 「にいちゃんには関係ないやろ! もう、いいもん。働かんけ」 と言いながらも、数週間後に、またうちの店のアルバイトとして復帰していた。
ところが、その頃から女の行動がおかしくなった。 頻繁にぼくの売場に来るようになったのだ。 かといって、何かをしゃべるわけではない。 たまに聞きもしない飼い犬の話をするくらいで、それ以外は何も言わず、ただ売場に立っているだけだった。 周りの人も、「あの子、ちょっとおかしいんやない」とささやき始め、「しんたさんが相手にするけ、来るんよ」と言い出す始末だった。
だんだんぼくも気味が悪くなってきて、その女との距離を置くことにした。 それでも、女は毎時間、ぼくの売場に現れた。 相変わらず売場に来ても立っているだけである。 ぼくはそのうちうんざりしてきた。 「お前、いい加減に戻らんと、お前の売場の人に怒られるぞ」 「怒られんもん」 「もういいけ、ここに来るな」 「あたし、何も悪いことしてないもん」 その問答の繰り返しが始まった。
しばらくして、女はうちの店のアルバイトを辞め、ある大手の量販店でアルバイトを始めた。 おかげで、頻繁に売場に来ることだけはなくなった。 が、休みのたびに顔を見せに来た。 「お前、他に何か楽しみはないんか?」と聞くと、「あるわけないやん」である。 「友だちとドライブに行ったりとかせんのか?」と聞くと、「そんな友だち、おらんもん」である。 相手をするのが馬鹿らしく思えたものだった。
その後ぼくは転勤になった。 そのことを、女には教えなかった。 ところが、前の店の人に「居場所を教えるな」というのを忘れていた。 そのせいで、今度は新しい店に顔を見せるようになった。 来たら帰らない。 ひどい時には、昼間に来てから、閉店時間までいたこともある。 さすがに新しい店でも、その女はおかしいと思ったらしく、女の顔を見かけると、ぼくに教えてくれるようになった。 ある日、食事に行っている時に電話が入った。 「しんたさん、今来てますよ。出てこないほうがいいですよ」 おかげでその日は、食事時間を2時間も取ってしまった。
そのうち店の人たちが、「しんたさんがストーカーにあってるらしい」と噂しだした。 これ以上女に関わりたくないと思ったぼくは、女が来た時に言った。 「お前、もう二度とこの店に来るな!」 「何で? あたし何も悪いことしてないもん」 「お前のこと、店の人はストーカーと噂しよるぞ」 「ストーカーじゃないもん。買い物に来よるだけやもん」 「じゃあ、買ったら、ここに来んでサッサと帰ったらいいやないか」 「にいちゃんが寂しいやろうと思って」 「とにかく、もう来るな!」 と、ぼくが強い口調で言うと、女は怒って帰っていった。 しかし、それが功を奏したのか、女が店に来ることはなくなった。
その後、しばらくその女のことを忘れていた。 ところが、1ヶ月ほど前、前の店に振替商品を取りに行った時のことだった。 恐ろしいことを聞いた。 「しんたさん、あの女、またここで勤めだしたんよ」 「えっ…」 ぼくは言葉を失った。 会えば、またあの訳のわからない女と、訳のわからない問答を始めなければならない。 ぼくはそそくさと、その場を立ち去った。 その後、ぼくはその店には行っていない。
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