『皇国の興廃この一戦にあり』 「各員いっそう奮励努力せよ」という言葉が続く、日本海海戦での東郷平八郎の言葉である。 今の日本に欠けるもの、それはこの言葉の背景にある危機感だろう。 日本よりも中国や韓国の反日感情を大切に思っている人や、いまだに革命などと口走っている人には関係のない言葉だろうが、日本を愛する人たちはぜひともこの言葉を吟味してもらいたいものである。 最近この皇国は、いつも興廃の危機に曝されている。 心ある国民は一歩踏み込んだ覚悟が必要だ。
『無為にして為さざるなし』 ぼくの老子好きはこの言葉から始まった。 無為と言えば「何もしないこと」と思われがちだが、ここには「何もしないことを為す」という意味が隠されている。 元来は政治論であるこの老子が、「何もしないことが最高」などと言うことはない。 要は無為という作為である。 攻撃的な無為である。 この呼吸が難しい。 何かを為そうと思う人は、一度すべてを捨て去って、無為に徹するべきだ。 そうすれば何かが見えてくる。
『随処に主となれば、立処みな真なり』 臨済禄にある言葉で、前に書いた「一灯を頼め」と同意である。 主、即ち主体。 しかしどこかの国の主体思想とかいう、とってつけたような低次元なものではない。 ここでいう主とは、心の主体、真の自分である。 真の自分の発見は、そのまますべてを真に変えることとなる。 さて、その真とは何か? 観の目である。 見るもの、聞くもの、感じるもの、すべてがこの観の目に帰する。 そして、これこそが観音の本体である。 前に日記に書いた、『観音の三大パワー』などと言うかぶれた宗教人は、その語呂がいいから使っていただけだのことだ。 きっと観音の本体も知らなかったに違いない。
『ゼロから数字を生んでやらう』 高村光太郎の『天文学の話』という詩の一節である。 高校を卒業した頃、『あこがれ共同体』というドラマをやっていた。 主題歌の前に、郷ひろみがこの詩の朗読をやっていた。 「それはずつとずつと先の事だ。 太陽が少しは冷たくなる頃の事だ。 その時さういふ此の世がある為には、 ゼロから数字を生んでやらうと誰かが言ふのだ。」 この後、山田パンダの『風の街』という歌がかかる。 高村光太郎については、いろいろな思い入れがある。 高校時代、現代国語で同じく高村光太郎の『ぼろぼろな駝鳥』という詩を習ったことがある。 が、この詩が反戦詩だと教えられ、また「『駝鳥』は何を意味するか」というちんぷんかんぷんな暗号解読授業ため、今ひとつ光太郎に興味がわかないでいた。 ところが、この詩の朗読を聞いてから、光太郎に対する見方が変わった。 さっそく光太郎詩集なるものを買い込んで、吟味しだした。 何度も読んでいくうちに、光太郎の頑固な面が大いに気に入った。 以来、ぼくは光太郎詩集が手放せないでいる。 それはともかく、この言葉、いい言葉ではないですか。 目を輝かせて、こういう言葉を吐いてみたいものだ。
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