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■ 「北の国から」からみた「ダサ」
「ダサ」と戦っているのである。 たとえば、身近な母親や父親に「ダサ」を見る時、目を背けたくなる。あれは、中学生の頃、授業参観に来た母親が担任教師に挨拶を交わす時。母親も娘の手前、そして大勢いる、つまりは私の友人を前に照れくさかったこともあるだろう。声のトーンがいつもよりも3オクターブ、言いすぎた。でも、1オクターブは間違いなく高かった。そんな声で、挨拶を交わす。 「すみませんねぇ。いつも、お世話になってて。本当に手間がかかるでしょう。本当にウフフフフ。ハハハハハ。」 意味もなく笑い続ける母:リエコ。人は自分の「ダサ」を感じた時、笑いで誤魔化そうとする。 うふふふふ。ははははは。 笑いってホントに便利。 でも、第三者的にそのやりとりを見ていた娘から見れば、もうこれはどうしようもないほど、「ダサ」くて、まわりの友人の目を気にすればするほど、格好悪くて、母親を全否定したくなる。 うふふふふ。はははは。 しかも、母親にはその後日談を話せなかったが、あの担任の暴力教師の野郎が、その母親を真似しやがった。 うふふふふ。ははははは。 泣いた。 単純に何が哀しい、と言うわけではなく、多分私は自分の感じていた「ダサ」が、他人にもバレてしまっていることに涙したのだろうと思う。しかも、その「ダサ」が一生懸命であればあるほど、「ダサ」に拍車がかかることをなんとなく、感づいていた私は、その母親の一生懸命の「ダサ」が、とても虚しい物に見えたのだろうと思う。 話は変わるが、「北の国から」という番組。これもどうしようもなく「ダサ」いものだと思っている。大きく言ってしまえば、「ダサ」の「ダサ」たる純なものを結晶化し、チュウシツした番組だ。父親の田中クニエは北海道に来たての頃、田舎にまだなじんでいないにもかかわらず、無理やり馴染もうとして色々と「ダサ」いことをしでかす。娘:蛍はなんとなく良い父親と思ってそれをみているが、息子:純はその父親の「ダサ」に気付いて、父親を否定し、マザコンにとらわれ続ける。そんな息子の方も、多くの卑怯なことをしでかし、吐露し、番組の「ダサ」に拍車をかけている。 ここで、他のドラマを見てみよう。たとえば、「渡る世間は鬼ばかり」。これも押しも押されぬ長寿番組だが、「ダサ」の要素はあまり感じられない。「ダサ」を、こんなことって良くあるよね、アハハ、というような笑いに変えて、見せているからだろう。それでいくと、「北の国からは」「ダサいよね、ほんと俺って、ダサいよ」と自分の「ダサ」を暴露し、またダサの窮地に立っていく。 「ダサ輪廻」。私はそう名付ける。そして、こうも考える。「人はダサい」。さらに「人はダサと戦っている」とも考えた。「北の国から」と言う番組は人の「ダサ」との格闘を描いたドラマだ。そして、人は、そのあからさまで「ダサ」すぎる「ダサ」に共感を覚え、こうして長寿番組としてなりたたせたのではないだろうか。 「俺はダサい。ダサいけど、そんな人間が大好きだ」 蛍を乗せた電車を追い続ける田中クニエの姿に、私は「ダサ」の境地を見た。
2002年09月07日(土)
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