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斜めうえ行く「オクノ総研 WEBLOG」
by オクノ総研
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■アナログ機器には愛を感じるけどデジタル機器には愛を感じない
僕はiPodやPDA、PC、携帯電話なんかを愛しすぎる人々だと思われているんだろうな、と思う。
「Wired」の記事を読みつつ、さすがにコレはないだろう、と思いつつ、僕自身は他人からこういう人間だと思われているんだろうな、と。
全然違う。
僕は、iPodもPDAもPCも携帯電話も全く愛していない。
ハードウエアに愛を感じる事はない。
好きだけど愛してはいない。
ほんの少しバージョンが変わっただけで、買い替え(買い増し)をするくらいなのだから、愛しているわけがない。
僕は、ハードウエアが壊れたり、古くなったすると何の感慨もなく捨てる。
何の感慨も持たない。
僕の住む横浜市は粗大ゴミの回収は予約制なので、コンビニでチケットを買って、ネットで回収日を予約して、サクっと捨てる。
一方で、モノに愛情を持つことがないのか?、と問われるとそうでもない。
愛の対象となるモノもたくさんある。
ギターなんかがそうだ。
僕が古いギターを粗大ゴミに出す事は「絶対に」ないだろう。
生まれてから今までに20本くらいのギターを買った。
手もとにあるのはそのうちの14本。
手もとにない数本のギターは友人に売ったり、親戚の子供にあげたりした。
行き先はわかっている。
そして、ここ10年以上は一本のギターも手放していない。
たぶん、ギターは増える事があっても減ることはないだろう。
僕にとっては14本のギター全てが宝物なのである。
精神構造が一夫多妻制なのだろうか?
それぞれのギターには特徴があって、向き不向きはある。
それは、欠点ではない。
個性だ。
全てがギターが愛の対象なのだ。
で、本題に戻る。
僕は、とうしてiPodにもPDAにもPCにも携帯電話にも愛を感じないのか?
それは、これらの機器がメディアだからだ。
媒体だからだ。
僕のゴーストはデータに宿っているのであり、ハードウエアに宿っているのではない。
iPod、PDA、PC、携帯電話に共通して言える事は、これらはデータストレージを備えていたり、コミュニケーションのツールである事だ。
iPod、PDA、PC、携帯電話は、蓄積されたデータをきちんとバックアップしておけば、ハードウエアを失っても、同じ環境を再現できる。
ハードウエアが変わっても、僕の環境はそのまま引き継ぐ事ができる。
不死の存在とでも言おうか。
ハードウエアが変わろうと僕のゴーストはそのまま生き続ける。
僕にとっては、脳の拡張であるiPod、PDA、PC、携帯電話は、完全なコピーを作ることができる点において愛の対象とならない。
そこにはハードウエアの持つ「個」が存在しない。
「個」が存在しないモノに対し、ゴーストが移植可能な記憶媒体に対して僕は愛を感じる事はない。
アナログなギターがそれぞれ個体差による個性を持っていたり、それぞれの時代に応じたクセを持っているのに対し、デジタル機器にはそれがない。
ギターは1950年代にある程度の完成されている。
1980年代になり、フロイドローズやEMGの登場により、また進化を遂げるのだけれど、進化はまたそこで停止している。
そして1950年代に完成されたギターは今も健在である。
ギブソンレルポール、フェンダーストラトキャスター。
今の僕は、古いタイプのレスポールにEMG、という50年前の木工技術と電子技術を混ぜ合わせ、自分で組み直したギターをメインに使っている。
僕の欲しいギターは、「吊るし」にはなかった。
自分で組み上げるしかなかった。
そして、それは愛の対象だ。
僕のギターは僕の音しか出ない。
先日組み上げた、ギブソンカスタムショップ製の1968年モデルのレスポールにEMGを装着したギターは僕にとってのひとつの完成形だ。
コスト度外視で、理想のギターを組み上げたつもりだ。
吊るしのギターでは自分の理想をかなえられなかったので、自分で組み直した。
ここから数年かけて、小さな点もいじっていき、自分の身体の一部になるまで調整を続ける。
新品のギターが完全に自分のモノになるには数年の時間が必要だ。
自分以外には理解不能な微妙な調整を数年間続け、弾き続けて、ようやく自分のモノになる。
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08月04日(木)
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