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窓のそと(Diary by 久野那美)
by 久野那美
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■キノコの選択
この間、何かの話の流れである友人がこんな風なことを言った。
「わたしはいつもその時点で<これがベスト>って思えることを選択していたい。だから、選択しなかった方のものには興味がない。それは、もう捨てたものだから。必要のないものだから。」

すごいカルチャーショックを受けた。
そうか。そうなのか。そういうことなのか。

彼女が強い意志と覚悟を持ってその考えを言葉にしていたことがとてもよくわかった。だから、そこで語られている<喪失>を、私はとても美しいと思った。

しかし。そのとき何が「そういうこと」だったのかというと、彼女ではなくむしろ私のことだった。

翻って自分のことを考えてみると、私にはそのような潔い喪失感がないような気がした。なんでだろうかと気になった。
私が割に何でもぼんぼん捨てる(選択が早い)、のは、もしかしたら選択しなかったものに対する喪失感が希薄なためかもしれない。
あるものを選択し、別のあるものを選択しないのは、一方には責任がとれてもう一方には責任がとれないからであって、興味の量とは全く無関係である。

選択しなかったもののことを、私はいつまでもひつこく考えているところがある。
「何故、私はそれを選ぶことができないのか?」ということに対する好奇心は、しばしば「その選択しなかったもの」に致命的に自分が損なわれて関わることが物理的に不可能になるまで続くことになる。多かれ少なかれこちらを選ぶとそのリスクがあると思うから選ばないわけだから、その状況はかなり高い確率で起こるのだ。

にもかかわらず。
「このキノコには毒があるはずだから食べない。こっちのキノコは無害だからこっちを食べよう。」と一方のキノコを選んで食べるとき、少なくとも食べている間中、毒のある(とみなした)キノコのことは頭から離れない。

ほんとうに毒があるのか?
それはどういう種類の毒なのか?
何に対する毒なのか?
抗体はあるのか?
もしかしたら食べ方によっては美味しかったりするのではないか?
そもそもどうしてこっちのキノコはあっちのキノコに比べて毒がありそうに見えるのか?
毒ではあるけれどももしかしたらたとえば当たり付きだったり豪華付録がついてたりして実はこっちを選んだ方がお得だったりするのではないか?(たとえば立てなくなるけど空を飛べるようになるとか、おなかを壊すけど算数ができるようになるとかしたりするのではないか?)

そして何よりも。毒があるかないか、という事以外に、もはや既存の<キノコ>という軸でははかり得ないこ第3の価値観によってこれらのキノコは比較し直すことが可能だったりするのではないか?
もしかしたらそのキノコを選択しないことは正しかったのかもしれないけれど理由は実は毒ではなく他の未知の要素であって、キノコというものはは毒の有無以外にも実はその「何か」の有無によって図られることが可能なのかもしれない。だとすると、わたしのキノコ観は大きく変更を迫られることになるのだけれど、それはいったい何なのか??・・・・・・

等々考え出すと果てしなくどこまでも行ってしまう。
それは、そのキノコの毒にやられてそこから退散せざるを得ない状況になるまで永遠に続くのだ。もしかしたら興味の度合いはむしろ美味しく無害な方のキノコに対するものよりずっと大きいのかもしれない。


「この映画、信じられないほど面白くなかったの。今度一緒に見ようよ。」
とかいう台詞を私はときどき(しばしば)言ってしまう。
たいてい「嫌。」といわれる。嫌な顔をされる。別に嫌がらせしてるわけじゃないのよ・・・。
結局その企画はほとんど達成されない。
しょうがないのでひとりで何回も見る。
あるいは、「面白くなかった」事実を隠して誰かに見せてみる。

<いったい何がそんなに面白くないのか>ということに対する興味(好奇心?)は、<いったいなにがそんなに面白いのか>ということに対する興味と全く同量に存在する。理由が納得行くまで、気になって気になって気になって気になってしょうがないのだ。
なんでなのかわからない。
だいたいすごく疲れるし下手すると死ぬ。


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12月12日(木)
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