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与太郎文庫
by 与太郎
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■ ポール先生、さようなら 〜 Super 〜
http://d.hatena.ne.jp/adlib/20001007
◆ Super
文芸部の送別会で、ぼくは後輩たちにメッセージを遺しました。
“オレにホレるような女に、オレはホレられたくない。オレの入れるよ
うな大学に、オレは入りたくなかった!”
それにしても、なぜ優秀な同期生は、申しあわせたように京都大学へ
行ってしまうのか? しかるに中西宏君はどうして行かなかったのか?
後輩のなかでも群をぬく俊英だった中西宏君に、担任の先生が、
「きみは、どの大学にすすむのか」
とただすので、彼は胸をはって、先生をタシナメたそうです。
「同志社のセンセが、そんなこと言うたらイカン」
「へぇ、なんでや?」
「ボクは同志社が気に入ったから、同志社に来たんです。ダイガクも、
同志社にキメてます」
「そうか、それはスマんナ」
と、先生が礼を言ったかどうかはわかりませんが。かくて彼は、生っ粋
の同志社ボーイとして初の(?)新入生総代の名誉を奪還したのです。
卒業後、その報告をきいて「さすが、スーパーマン!」と内心喝采し
ました。なにしろ彼は、小山素麿君から数えて四代目・同志社中学新聞
部長でもあったのです。
(しかし二代目が、落第したのはいかにもまずかったかな?)
三代目新聞部長・北川禎三君については、ほとんど記憶がない。中西
君の印象が強いのは、卒業後に明治屋の前で出会ったとき、彼が大声で
“センパーイ”と声をかけてくれたこと、その翌年には文芸部に入って、
ふたたび後輩となったからでしょう。
彼の自慢話をはじめるとキリがないので、ほんの一例をあげましょう。
大学卒業後、NCR(日本金銭登録機)のセールマンとなって、たち
まち新人賞をとります。その記念品とは、米国ナントカ大学の図書館の
蔵書一式(!?)。「そんなもん貰うて、どこに置くんや?」ときくと、
「マイクロ・フィルムに顕微鏡がついてるんですワ」
そして、社内いちばんの高給とりになったので「居心地わるいから」
退職、踊り子にホレたがフラレる(!)。
最後に会ったころには、彼は結婚して(たぶん父親の後継者として)
スーパー・マーケット(?)を経営していたようです。
もし今でも続けているとすれば「人類史にとって損失ではないか」と、
竹内君への手紙に、追記しました。
◆ Post
私の不出来自慢で、教育者としての先生の評価をそこねてはいけない
ので、卒業後に東京で国際的貢献をはたしたエピソードを。
夜の東京中央郵便局で、用をすませて隣をみると、韓国人老夫婦が涙
をうかべて局員にたのみごとをしています。
身内が死んだので、祖国に電報を打ちたいが、先方には日本語を読め
る者がいない。ハングル語はもとより漢字でも電報は打てない。じっと
様子をうかがいながら、私は画期的なアイデアを思いつきました。
「よろしい、ボクに任せなさい。まずお父さん、あなたが言いたいこと
を韓国語でボクに言いなさい」老人の顔がパッと輝く。
「なにその、ボクは韓国語はできません」、老人の顔がパッと紅らむ。
「よろしいか、ボクが同じ発音を繰りかえす。大体の意味が通じるよう
なら、ウンという」
「!!!?」
「そのまま、ボクがローマ字に書きうつす。局員さん、それなら電報を
打てますね」
「ウン? はい!」
◆ Reunion
みんなが三十歳になったころ、あいついで三度の同窓会が設けられま
した。中学高校時代に一度でも机をならべた同窓生に呼びかけ、ナイト
クラブ・ベラミで再会する私設同窓会という趣旨で、来賓の先生がたを
ふくめて百人におよぶ盛況となりました。
このときの記録は《同窓会始末 19710115-0415》にまとめましたが、
私の役割は、当日の受付・司会を担当する前に、ひとりで延五百数十人
の案内状の宛名を書くことでした。
その結果、受付にあらわれた出席者ひとりひとりに対して、ほとんど
間髪を入れず、フルネームで応答することができました。十三年以上も
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10月09日(月)
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