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与太郎文庫
by 与太郎
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■ 日本の弦楽四重奏談 A 岩淵 竜太郎氏に聴く
範囲でということで 有馬理事長も了解してくださった 当時のN響は
全体的に給料も安かったし 研究費のかたちで いくぶん援助していた
だいたりもしました ところが 後でだんだん判ってきたことなんです
が 同じオケのメンバーであっても ひと月くらい顔を合わせないよう
なことがあるわけです それでしばらく音も合わせていないで 久しぶ
りにやると どうも音が溶けてこない クワルテットというものは そ
ういうものらしいんですね
── しじゅう奏していないと(笑)
岩渕 そうなんです(笑)そのうちオケとのかけもち自体に無理を感じ
るようになりまして いずれをとるかということで 自分のクワルテット
として力のかぎり いけるところまでやってみたかったですね
── デビュー・プログラムはやはりベートーヴェンで始まりましたか
岩渕 《ラズモフスキー第2番》とドボルザークの《アメリカ》 そし
てブラームスの《ピアノ五重奏曲》ピアノは松浦豊明さんで このとき
からチェロが松下修也さんになりました はじめはN響のスケジュール
とかちあわないよう 合間をぬってやっていたのですけれども 今にく
らべて 臨時演奏会などがぎりぎりの間ぎわになって決ったりしまして
当時しばしばそんなことが重なりましてとても体力的にも両立がむずか
しくなってきたわけです そんなところへ 渡辺さんが日フィルを創ら
れるに当って またまた誘いを受けました これが はじめの話ではい
くらでもクワルテットをやれる というたいへんいい条件なので つい
その気になったわけです(笑)
── 当時 最高の切札でもあったわけですね(笑)30年の日フィル京
都公演は まだ京都会館がなくて 同志社の栄光館でしたね
岩渕 そうでした 《運命》などをやりました コンサート・マスター
には ブローダス・アール氏がいて 客員として加わりましたので ク
ワルテットの時は休みますよ という条件だったのですが 実際にはな
にしろ6プルトしかありませんので いくらいいといわれましても休む
と格好がつかない状態でしたね
── 32年には プロムジカとしての二度目の京都公演を聴かせていた
だきました この時の第二ヴァイオリンは堀伝さんでしたね
岩渕 つまり 日フィルには 結局2年近くいたわけで その後京都の
音大に関係しましてから 西ドイツに行きまして 雑誌を見ておりますと
四つのオーケストラでコンサート・マスターを募集しているのです ち
ょうど楽器を買うお金もほしかったので 問いあわせててみますと三つ
はすでに決定したあとで 一つだけ残っていました あちらのオケの試
験というのは 旅費・日当が向う持ちなんです ですから もしダメで
も見物してこれるわけですから(笑)出かけてみました これがフラン
ケンランド州立交響楽団でして エーリッヒ・クロスという指揮者のも
とで 1年ばかりやって音大に帰ってきました
■ ヴィオラが足りない
── 一時は 京響で演奏顧問として坐っておられましたけれども 音
大では 主にアカデミア弦楽合奏団の指導に御熱心でしたね
岩渕 このところ すこし休んでいるのですが音大の弦楽器教育という
面でたいへん有効な活動になると思いましてね
── たとえば ふと考えるのですが 学生時代から同じメンバーによ
るクワルテットを育てる というようなことは不可能でしょうか
岩渕 それこそ理想的なんでしょうけれど ひとつの大学で 同じ条件
の奏者をそろえるというのは 年令的にも技術的にも たいへんむずか
しいようですね 過去の形態としては 海野義雄を中心に芸大在学生に
よるアカデミア弦楽四重奏団というのをやっておりまして 彼がN響へ
入ってからも しばらく続けていたようですが きわめて稀な例だと
思われます ひとつの理由として 考えられるのにヴィオラという楽器
に人材が少ないのです
── ヴァイオリンからの転向はむずかしいのでしょうか
岩渕 できるんです ところが才能のある人ほど やりたがらないのが
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11月12日(水)
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