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与太郎文庫
by 与太郎
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■ 日本の弦楽四重奏談 A 岩淵 竜太郎氏に聴く
シンフォニーも面白くなってきましたし どうせやるならN響に来ない
かと誘われまして どうも誘惑には勝てない性分ですから(笑)
── 最初からコンサート・マスターに着任されたのですか
岩渕 第2プルトの外側 つまり第3奏者として 1年ばかり見習いを
やりまして ローゼンシュトックが26年にふたたびN響の常任指揮者と
して来日した時から その任につきました
■ 忘れられない指揮者たち
── ローゼンシュトックといえば 例の江藤少年との天才二重奏いら
いの縁ですね 当時のN響は終戦後 いわゆる来日演奏家を一手に迎え
て協演した時代ですが おそらくその演奏長としての御苦労は たいへ
んだったでしょうね
岩渕 苦労もありましたが いい経験をさせてもらいました だいたいは
オケっていうのは 指揮者次第といいますか いい指揮者に会ったときに
は 実に会心の音が出るんです ローゼンシュトックが戦後なんとかし
て演ろうとして できなかった曲に ストラヴィンスキーの《春の祭典》
がありました これを実際にN響で振ったのが ジャン・マルティノン
だったわけです 彼とは忘れられない経験がいくつかありましたね
── 26年でしたね ときに折よく アイザック・スターンとの協演が
実現して 戦後初の大物同志の顔合わせと評判になりましたね
岩渕 そうです 特にマルティノンの《幻想交響曲》では 最初の練習
でしたが はじめ まるでリズムを明示しないんです われわれはとても
ついていけない ところが オーボー奏者として当時ウィーンから来て
いたシフトなどは それでちゃんと吹けるわけです そこで じゃもう
いっぺん といって振りはじめると こんどは実にうまくいくんです
おどろきましたね つまり はじめての オーケストラってものを彼は
一瞬のうちに見ぬいてしまうわけです 《幻想》という曲は 演奏する
側から どちらかといえばドタドタした作品なんですけれども(笑)あ
る意味で 当時のN響はウブだったというか 客観的にも技術の水準は
今ほどでなかったのですが それをあそこまでもっていけるというのは
たいへんな力だと思いますね 実にファンタスティックな すばらしい
指揮でしたね
── その翌年は いよいよカラヤンがやって来ましたね 15年前とい
えば まだ帝王になる直前で この時のエピソードに 彼が練習の際に
黒いトックリのセーターを着てあらわれて まじめな気むずかしい表情
で振っていて フォルテシモになるとボコっとおヘソが見える(笑)た
しか当時のN響メンバーによる芸術新潮での座談会でしたけれども
岩渕 そうでしたか(笑)たいへんにエネルギッシュな指揮者でした
おヘソで思い出したんですが(笑)実におどろいたことがあるんです
ベートーヴェンの《第九交響曲》を彼が指揮して 本番のときなんです
けれども 私はすぐ近くで弾いておりましたが 彼のズボンのある箇処
が 何と申しますか つまり あきらかな状態になってるわけですね
私ははじめ何かのまちがいじゃないかと思ったんですけれど(笑)それ
が全曲を通じてずっとなんです まったく おどろきました
── 活字にしにくいエピソードでしょうね これは(笑)
岩渕 こうした大指揮者になりますと オーケストラは まるで磁石に
かかったように 自在にふりまわされるわけですね 一方では 天才的
なテクニシャンというタイプの人もいますし コステラネッツなどもそ
うでしたけれど ほんとうに指揮者次第だと思います
■ プロムジカへの道
── コンサート・マスターとしての任務のほかに たえずクワルテッ
トもやっておられましたね
岩渕 そうです プロムジカ弦楽四重奏団としてデビューするまで3年
くらい チェロが常松さん ヴィオラが小磯さん 第二ヴァイオリンを
竹内さんといったメンバーで だいたい固定していましたね
── 28年に正式結成にあたっては N響側の協力もあったわけですね
岩渕 私的な団体ではあったのですけれども N響の演奏に差支えない
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11月12日(水)
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